ゲーテ自然科学の集い

ゲーテ自然科学の集い】東京研究会4月3日(日)午後1時30分〜 慶應大学( 三田)南館5階D2051号、今村純子氏:「共通感覚の覚醒―シモーヌ・ヴェイユ『前キリスト教的直観』をめぐって」、講読:Zur Farbenlehre. Didaktischer Teil. (橘宏亮氏)

中川純男先生の追悼論集

 中川純男先生が亡くなって、まもなく1年になる。この3月に中川先生の事実上の追悼論集というべき書物が刊行されたので(慶應義塾大学言語文化研究所・発行、慶應義塾大学出版会・発売)紹介しておきたい。

西洋思想における「個」の概念

西洋思想における「個」の概念

慶應義塾大学出版会による紹介
 まもなく4月9日の一周忌である。昨年頼まれて書いて書いた私の追悼文を約1年の時を経て、ここに全文掲載しておこう。

 中川純男先生が亡くなられた。ほとんど信じがたいことである。先生は今年一月末頃より入院治療を受けられていたが、春以降の公務復帰にも積極的であったと聞く。私もかつて、中川先生にアウグスティヌスデカルトラテン語で読んでいただき、またプラトンやカントの霊魂論を講じていただいた。講読演習でも講義でも、本質的に難しいことがらを語っているにもかかわらず、その語り口は明晰で、不必要な難解さからは一切無縁であり、大いに啓発された。近来、私は哲学から科学史や科学文化論へと勉強の軸足を移しているが、中川先生の著作や授業はつねに私の蒙を啓いてくださり、私の研究の霊感源であり続けている。先生からはまだまだ多くのことを学びたいと思っていた。中川先生の早すぎる死を前に、ただただ戸惑うばかりである。 中川先生と私の出会いは、一枚の掲示物を通してなされた。私が慶應大学文学部に入学した年、日吉キャンパスで一般教養科目の最初の試験が行なわれたときのことである。当時私は中川先生の授業を受講していなかったが、お名前は存じ上げていた。別の科目の試験問題に関する指示を見るために文学部の掲示板を覗いたとき、偶然、中川先生が出された掲示が目に付いた。その掲示物はA4判の用紙に数行のみが印刷されたものであり、内容は試験についての事前指示であることがわかった。事前に問題を示すので各自充分に検討したうえで当日試験場にて解答用紙に論述せよ、という趣旨の出題であるらしい。そこには問題文が記されていた。この問題文に私は度肝を抜かれる。いわく、「魂について論じなさい」。ただそれだけが書かれていたのである。「プラトンにおけるイデア論について論じなさい」とか「カントの『純粋理性批判』における知覚について論じなさい」ではない。そうした「何々における何々」式の設問は、他の学科の試験やレポートでなじみのものであり、一定の対象の或る範囲について予備知識を仕込んでおけば、解答に困難はない。実際、その年の一般教養科目の試験で、私は「谷崎潤一郎の小説における女性」や「コミュニケーションにおける非言語要素」について論述することになる。だが、中川先生が教養課程の一年生に出されたのは、端的に、魂とはどのようなものか考え、それをそのまま述べなさいという問題であった。このあまりに簡潔であるがゆえにあまりに解答困難な問い、いわば哲学のハードコアと呼ぶべき問題を大学に入ってきたばかりの学生に直球で出題する人物に、私は――やや大げさにいえば――恐れを抱いた。そして、哲学という学問にも。
 その恐れに魅了されたのか否か、今となってはわからないが、その後私は哲学科に進学し、八年間にわたって中川先生の学恩に浴することになる。専門課程に入ってすぐのガイダンスで、はじめて中川先生にお目にかかると、もちろん恐れを抱くようなかたではなかった。いつも微笑をたたえ、穏やかな紳士というのが先生を知る誰もが認めるところであろう。長身を紺色のジャケットとグレーのスラックスに包んでいることが多く、ほぼ毎日大学に出勤されているが、授業以外のときにお会いしても、いつもきちんとネクタイをされていた。だが、授業のときの先生には、やはり私は恐れをいだきつづけることになる。それはなにも、授業中に先生が激昂されるとか、学生をなじるとか、そうしたことが起きたためではない。ラテン語講読の授業で、私は決してよい学生ではなかった。対訳のコピーを配られれば右側の英訳なり仏訳なりの部分しか読まずに訳出し、ラテン語名詞や動詞の語形変化はいっこうに覚えない。そんな予習で授業に臨み、いいかげんな訳文を口にすると、中川先生から当然ながら駄目出しをされる。そのとき先生がおっしゃるのは、決まって「そうかぁ?」という言葉であった。この「そうかぁ?」を発するとき、先生はいつもと同じ優しい微笑を浮かべているのだが、眼は少しも笑っていない。これが大変な恐怖なのだ。穏やかな調子ではあるが、こちらの手抜きを完全に見抜き、鋭い視線とともに、すかさず指摘する。逆に――私にとってはごく稀なことであったが――綿密に予習して的確な解釈を述べると、先生は歯切れよく「そう!」とおっしゃった。これが出ると、安堵の息をついたものだった。
 演習でも講義でも何かを説明されるとき、先生はしばしば具体的な例を挙げられた。その例が、いつもごく身近な――失礼を承知でいえば馬鹿馬鹿しいほど卑近な――例であるのが毎回ほほえましかった。「お昼にカレーライスを食べるか、ラーメンを食べるかと悩むとき」といった例を真面目な顔でおっしゃる。「ソクラテスが毒杯を仰ぐか、国外に逃れるかに悩むとき」などといった高尚な(?)例はめったに使われない。中川先生の講義は、無用な難解さや不必要なもっともらしさというものを一切排することに主眼があるようで、とにかく本質を端的にとらえ、分かりやすく述べるということが重視されていた。この端的さは、先生が学生に求めたことでもある。誰々の何々という学説におけるこれこれについて……などとは訊かず、端的に「魂について論じなさい」と要求したのは、後にして思えば、いかにも中川先生らしい。
 先生はアウグスティヌストマス・アクィナスを中心とする中世哲学の研究者であられた。だが、授業で扱われたテクストは中世に限ることなく、私が出席した演習ではアリストテレス『弁論術』、デカルト省察』、キケロ『発見について』などを原典で読んでくださり、講義形式の授業ではプラトンパイドン』、カント『純粋理性批判』『実践理性批判』など多岐にわたって講じてくださった。哲学書の内容を注釈する際には、そのテクストが成立した時代に関する政治史・社会史的背景を説明してくださり、ラテン語の語学的説明をされる際にも、ある語がギリシア語ではどのような意味で現代西欧語ではどのような意味に変化して残っている、語源を同じくするのはどのような語であるといったことを教えてくださった。毎回の授業で、ひとつの対象の説明がさまざまなトピックに拡がるような広く深い知識を惜しみなく披露してくださったのだ。先生は、言葉の真の意味で homme de lettres(文人)、つまり古きヨーロッパが理想とした教養人であった。歴史のことも芸術のことも、うかがえば何でもご存じであるのに、それをあからさまに見せることはなく、哲学の専門研究者として謙虚にふるまわれていた。先生とは大学図書館の意外な場所(つまり哲学関係以外の本がならぶ書架。例えば法律学政治学の洋書が集中的に配架されている三田南館地下書庫など)でお目にかかることも多くあり、そんなときどのような本を探されていたのか気になったものだ。そういえば先生は三田の研究室で夜遅くまで仕事をされていることも多かったようで、第一京浜をまたいで田町駅にのぼる階段のあたりで、二十三時頃に先生とすれ違うことが何度もあった。私は大抵田町近辺で酒を飲んだ帰り、先生は明らかにお仕事帰りのご様子だった。先生のご病気は、学問と校務・学会運営などの激務が祟ってのことであろう。還暦を過ぎたのちもお仕事をセーブするということのなかった先生の勤勉さが今となっては悔やまれる。
 傑出した哲学研究者であり一級の知識人である中川先生は、学生にとっては、学問的厳密さを要求する一方で、心優しく面倒見のいい教師であった。先生の授業がすこぶる明快なものであることはすでに述べた。加えて、先生は履修する学生のための配慮をつねにおこたらなかった。授業で読むテクストは、まずラテン語なりギリシア語なりの原典が配られる。そして、その諸国語訳や注釈書の情報が、先生のウェブサイトに詳細にわたって掲載される。そこで言及されている書物が慶應大学の図書館にある場合、所蔵されている地区から蔵書番号までがサイトに記載されており、履修者がその書物に容易にアクセスできるよう細心の配慮がなされている。学問上のことであれ大学の学事関係のことであれ、質問をメールで送れば、即座に的確な返信を送ってくださる。私が出会ったときすでに中川先生は哲学科のなかで最年長の教員の一人であったはずだが、コンピューターの操作にも習熟されていたのだ。さきに述べたウェブサイトはRoom 206と題さており(これは先生の研究室の部屋番号に由来する)、簡潔で見やすいデザインで、有益な情報が数多く掲載されたものであった。
 哲学科の学部生時代に事情あって私が休学した際、学科の責任者として対応してくださったのも中川先生であった。先生は、学者としては厳密さと精確さを人一倍重んじる厳しいかたであったが、大学人としては、学事上の役職にある者がときにみせるリゴリスムとは一切無縁で、学生のことを親身に考え、しかも世知に通じた大人の対応をしてくださった。のちに講義でカントの定言命法を明快に説明してくださることになる中川先生は、休学の手続きに際して、ある種の必要悪というべき行為を私に指示された。その内容をここに述べることは先生との仁義に反するので遠慮したいが、むろんそれは、人を傷つけたり、それによって誰かが害を受けたりするような類の悪ではないことは明言しておこう。私は中川先生の、おそらくカント的にはありうべからぬ行動規範によって、大いに助けられることになる。
 中川先生とお酒をご一緒させていただいたことは二度ほどしかなかったが、先生はいくぶん饒舌になるほかは、平素と少しも変わらないご様子で、楽しい宴席であったことを記憶している。ふだん喫煙されることはなかった先生が、酒席では「煙草は吸わない。だけど人の煙草は貰う」といって、学生から貰い煙草をしていたのがほほえましかった。   
 ほほえましいエピソードは数限りなくある。私が大学院の試験を受けたとき、中川先生は大学院文学研究科委員長の職にあった。いうまでもなく大学院組織のトップなのだが(そして、学内では言語文化研究所所長を兼任、学外では中世哲学会会長の職に就かれていた)、誰よりもマメに仕事をされている様子が、先生のお人柄を物語っていた。たとえば受験者控室の管理をしている若い先生方の座る椅子が堅そうに見えたのだろう、どこからかクッションだか座布団だかのようなものを調達してきて、自ら配って回られていた。何も中川先生がなさらなくとも、と思ったものだ。先生はそういうかたなのだ。
 その後、私は大学院でも、断続的にいくつもの授業で中川先生のお世話になった。昨年はキケロの『発見について』というテクストをラテン語で読んでいただいた。この一月にも賀状をいただいたばかりであり、一九四八年生まれで六一歳の先生の訃報は、いまもって信じがたい。決して軽いとはいえないご病気とのことはうかがっていたが、亡くなるにはあまりにお若い。お辛かったことであろう。発病されてから逝去されるまでが比較的短い期間であったのが、せめてもの救いである。授業でプラトンやカントを参照しつつ魂の不死を講じていた中川先生ご自身は、死後の霊魂の行方をどう捉えていたのだろうか。先生の魂が安らかであることを祈りたい。

みずほ銀行窓口での「不正」引き出し報道をめぐる違和感

 震災の被害が日々拡大するなかで、お金の話をするのも少々躊躇するが、大事なことなので書いておこう。
 みずほ銀行のシステム・トラブルにかかわる報道が少々気になるのだ。
 次の報道記事をみてほしい。

みずほ、残高超える不正引き出し相次ぐ
大規模なシステム障害が続くみずほ銀行で、新たな問題が明らかになりました。ATMが使用できなかった今月19日からの3連休に、窓口で預金の引き出しに応じた際、利用者が預金残高を超えて不正に引き出したケースが相次いでいたことがわかりました。その額は2億円にのぼる可能性があるということです。

 みずほ銀行は、大規模なシステム障害が相次いだため、19日からの3連休に、すべてのATMを停止する代わりに臨時で全国の店舗を開き、キャッシュカードや本人確認書類などを持参した利用者に対して1件10万円までの引き出しに応じました。この3日間で19万6000人が総額109億円を引き出しましたが、関係者によりますと、システム障害によって預金残高を確認できないまま、申告額通りの引き出しに応じたため、利用者が残高を超えて不正に引き出したケースが相次いでいたことがわかりました。中には、1人で複数の店舗を回って10万円ずつ引き出したケースもあり、不正に引き出された額は合計2億円にのぼる可能性があるということです。

 みずほ銀行では、すでに一部を回収していますが、長引くシステム障害が残高を超えた不正な引き出しという新たな問題を引き起したことになります。(25日11:35)
(TBS Newsi :http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye4683441.html

 だが、残高を超える金額の引き出しは、ほんとうに不正か?
 3月19日時点では、次のように報道されている。

みずほ銀行:連休中に預金を引き出すには?…Q&A
 −−引き出しに必要なものは?

 ◆通帳またはキャッシュカードと印鑑、本人確認できるものとして免許証やパスポートなどが必要です。引き出しの限度額は、原則として連休中に1人当たり10万円です。引き出し分はシステム復旧後、残高から引かれます。残高よりたくさん引き出した人は、後でもらい過ぎの分を返さなくてはなりません。
−−みずほ銀行の口座に入るはずの今月の給料が、予定の18日に振り込まれていなかったけど、どうなるの?

 ◆実際の入金は早くても22日以降になります。当座のお金がいる場合は、店頭で10万円まで引き出すことができます。
毎日新聞 2011年3月19日 0時25分:http://mainichi.jp/select/biz/news/20110319k0000m020146000c.html

 本来入金されるべき金額(たとえば給与)が、このシステム障害のせいで未入金だった場合、当座のお金が必要ならば、10万円まで(残高に関係なく)引き出せる、そして残高を超えて引き出した金額は、給与なり何なりの入金がありしだい返金すればよい、という意味に読める。みずほが18日時点で発表した、連休(18〜21日)中の取り扱いに関する案内文はすでにみずほのサイトから削除されているが、上記の毎日新聞報道と同趣旨だったはずだ。
 実際、たとえば20日が給料日で、連休のため前倒しで18日に入金されるはずだった給与が今回のトラブルで入金されず、残高が少なく、やむをえず残高を超えて引き出した人もいるだろう*1。このようなケースは何ら責められる理由はないはずだ。本来なら18日時点で30万の入金があったはずだが、実際には残高が5万だったとして、連休中に窓口で10万を引きだしたとしても、不足分の5万円は、詐取したということにならない。みずほのシステムが回復して給与が振り込まれ次第、みずほに5万を返金すればよいだけの話である。返金意志があるならば、詐欺行為にあたらない。
 最初に引用したTBS報道にある「不正」という表現は、もしTBSが独自に用いたのならば事態を正確に把握していない軽率な報道が批判されるべきだ。もしみずほ銀行側が用いた表現ならば、この銀行は顧客を愚弄するにも程があるというものだろうし、それを鵜呑みにするTBS報道もあまりに愚劣ということになる。システム障害で大迷惑をかけ、その結果、預金者がやむを得ずとった行動について一方的に「不正」だとなじるなど言語道断である。この「不正」とされる引き出し行為を「火事場泥棒」などと称する声もウェブ上にいくらかみられるが、まったく的を外している*2


※図版は1880年頃のウォール街取り付け騒ぎで銀行に詰めかけた人々を描いた風刺画("A Run on the Bank" c.1880)。

*1:ちなみに私が給与(正確には研究奨励費)をいただいている某独立行政法人20日が振り込み日。振り込み先はみずほ銀行。もっとも私は振り込みの有無、あるいは何日に振り込みが完了したのか、26日現在、いまだ確認していない。連休中に窓口で2万円だけ引き出したが、おそらく残高は足りていたはず(笑)。

*2:TBS報道にある連休中に複数の支店をまわって数十万を引き出した、などというのも、本当に急遽必要なお金だったのかもしれないではないか? どうして事情の細部を語らずに、不正などと言えようか。この数十万がしかるべき時期に返還されなかったとき初めて、この行為を不正と呼べるのである。

フーターズで浮かれる

 昨夜は赤坂見附フーターズ」に行った。もともとは米国のレストラン。日本では昨年10月、赤坂見附駅前に開店し話題となった。チアガール風のハイテンションな店員さんがアメリカンに接客してくれる店として知られる。友人の或る慶事のお祝い飲み会をひらくことになり、その友人の希望でこのお店に行くことになった。彼の誘いがなかったら、自主的に行くことは恐らくなかっただろうが、テンションの高い店員さんの接客はなかなか楽しく、けっこう気に入った。ソフトなキャバ〇ラだとか、往年の〇〇〇〇喫茶の上品版だとか、ろくでもないことを考えながら行ったのだが、予想よりずっと健全。女性グループや一人で来店する人の姿もみられた(それこそキャバ〇ラ・モードで大喜びのおっさんもいたが)。たまにはこういうお店で浮かれるのも悪くない。料理も想定していたよりずっと美味しい。3人で行ってドリンク合計5杯、料理3品で9000円弱。1人3000円程度なので、思ったより安い。サービス料は10%とのこと。この日は金曜で混雑が予想されたが、17時前だったので並ばずに入店できた(18時半頃に店をでるときは、店外にかなりの行列ができていた)。近くにあったら、通うかも。
フーターズ - Wikipedia
HOOTERS TOKYO
時事ドットコム:動画特集 セクシー衣装のフーターズガールが大活躍=フーターズ東京
@nifty:デイリーポータルZ:待ってました!フーターズ


大学入試問題ネット投稿騒動

入試投稿「騒いで逮捕させた」「監督こそ問題」京大に抗議殺到
産経新聞 3月4日(金)12時18分配信

 京都大や早稲田大学など4大学の入試問題が試験時間中にインターネットの質問サイト「ヤフー知恵袋」に投稿された事件で、偽計業務妨害容疑で京都府警が仙台市内の男子予備校生(19)を逮捕してから一夜明けた4日、京都大に抗議の電話が殺到した。

 京大によると、4日午前8時半ごろから一般からの電話に応じているが、「京大が騒いで未成年者を逮捕させた」「京大の監督態勢こそ問題があったのではないか」との抗議や苦情が、受け付け開始1時間ほどで約30件に及び、その後も鳴りやまないという。

 内容はすべてが京大の対応を非難したもので、年配者の方の声が多いという。
引用元:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110304-00000539-san-soci

 「監督体制が甘いからカンニングをされるのだ」などというのは、レイプの被害者に「お前に隙があったから被害にあったのだ」というに等しい暴論。せこいカンニングをした(それもうまくやりおおせればいいものを、稚拙な手口ゆえにただちに発覚し、こんなくだらないことで日本中の大学関係者に要らぬ労力をかけさせ、他の受験生に無用なストレスを与えた)馬鹿者がいるかと思えば、こんな講義電話をかける大馬鹿者もいる。平和なこと、この上なし。京大に励ましの電話でもかけようか。

 ※画像は仇英の手になる科挙試験合格発表の図。

芥川賞受賞作を読む

 

きことわ

きことわ

 技術は高い。「意識の流れ」的な手法による時間処理の仕方も面白い。だが、決定的に物語内容が希薄。同じ書き手の別の作品を手に取ろうという気にはならない。
苦役列車

苦役列車

 こちらは掛け値なしに秀逸。文章も見事なのだが、何といっても物語内実が面白い。人間の醜悪さ――巨悪ではなく、惨めったらしい小人物の貧乏くさい悪――をここまで見事に描いた文学は近来稀有なものだ。今後の作品にも注目したい。