中川純男先生の追悼論集

 中川純男先生が亡くなって、まもなく1年になる。この3月に中川先生の事実上の追悼論集というべき書物が刊行されたので(慶應義塾大学言語文化研究所・発行、慶應義塾大学出版会・発売)紹介しておきたい。

西洋思想における「個」の概念

西洋思想における「個」の概念

慶應義塾大学出版会による紹介
 まもなく4月9日の一周忌である。昨年頼まれて書いて書いた私の追悼文を約1年の時を経て、ここに全文掲載しておこう。

 中川純男先生が亡くなられた。ほとんど信じがたいことである。先生は今年一月末頃より入院治療を受けられていたが、春以降の公務復帰にも積極的であったと聞く。私もかつて、中川先生にアウグスティヌスデカルトラテン語で読んでいただき、またプラトンやカントの霊魂論を講じていただいた。講読演習でも講義でも、本質的に難しいことがらを語っているにもかかわらず、その語り口は明晰で、不必要な難解さからは一切無縁であり、大いに啓発された。近来、私は哲学から科学史や科学文化論へと勉強の軸足を移しているが、中川先生の著作や授業はつねに私の蒙を啓いてくださり、私の研究の霊感源であり続けている。先生からはまだまだ多くのことを学びたいと思っていた。中川先生の早すぎる死を前に、ただただ戸惑うばかりである。 中川先生と私の出会いは、一枚の掲示物を通してなされた。私が慶應大学文学部に入学した年、日吉キャンパスで一般教養科目の最初の試験が行なわれたときのことである。当時私は中川先生の授業を受講していなかったが、お名前は存じ上げていた。別の科目の試験問題に関する指示を見るために文学部の掲示板を覗いたとき、偶然、中川先生が出された掲示が目に付いた。その掲示物はA4判の用紙に数行のみが印刷されたものであり、内容は試験についての事前指示であることがわかった。事前に問題を示すので各自充分に検討したうえで当日試験場にて解答用紙に論述せよ、という趣旨の出題であるらしい。そこには問題文が記されていた。この問題文に私は度肝を抜かれる。いわく、「魂について論じなさい」。ただそれだけが書かれていたのである。「プラトンにおけるイデア論について論じなさい」とか「カントの『純粋理性批判』における知覚について論じなさい」ではない。そうした「何々における何々」式の設問は、他の学科の試験やレポートでなじみのものであり、一定の対象の或る範囲について予備知識を仕込んでおけば、解答に困難はない。実際、その年の一般教養科目の試験で、私は「谷崎潤一郎の小説における女性」や「コミュニケーションにおける非言語要素」について論述することになる。だが、中川先生が教養課程の一年生に出されたのは、端的に、魂とはどのようなものか考え、それをそのまま述べなさいという問題であった。このあまりに簡潔であるがゆえにあまりに解答困難な問い、いわば哲学のハードコアと呼ぶべき問題を大学に入ってきたばかりの学生に直球で出題する人物に、私は――やや大げさにいえば――恐れを抱いた。そして、哲学という学問にも。
 その恐れに魅了されたのか否か、今となってはわからないが、その後私は哲学科に進学し、八年間にわたって中川先生の学恩に浴することになる。専門課程に入ってすぐのガイダンスで、はじめて中川先生にお目にかかると、もちろん恐れを抱くようなかたではなかった。いつも微笑をたたえ、穏やかな紳士というのが先生を知る誰もが認めるところであろう。長身を紺色のジャケットとグレーのスラックスに包んでいることが多く、ほぼ毎日大学に出勤されているが、授業以外のときにお会いしても、いつもきちんとネクタイをされていた。だが、授業のときの先生には、やはり私は恐れをいだきつづけることになる。それはなにも、授業中に先生が激昂されるとか、学生をなじるとか、そうしたことが起きたためではない。ラテン語講読の授業で、私は決してよい学生ではなかった。対訳のコピーを配られれば右側の英訳なり仏訳なりの部分しか読まずに訳出し、ラテン語名詞や動詞の語形変化はいっこうに覚えない。そんな予習で授業に臨み、いいかげんな訳文を口にすると、中川先生から当然ながら駄目出しをされる。そのとき先生がおっしゃるのは、決まって「そうかぁ?」という言葉であった。この「そうかぁ?」を発するとき、先生はいつもと同じ優しい微笑を浮かべているのだが、眼は少しも笑っていない。これが大変な恐怖なのだ。穏やかな調子ではあるが、こちらの手抜きを完全に見抜き、鋭い視線とともに、すかさず指摘する。逆に――私にとってはごく稀なことであったが――綿密に予習して的確な解釈を述べると、先生は歯切れよく「そう!」とおっしゃった。これが出ると、安堵の息をついたものだった。
 演習でも講義でも何かを説明されるとき、先生はしばしば具体的な例を挙げられた。その例が、いつもごく身近な――失礼を承知でいえば馬鹿馬鹿しいほど卑近な――例であるのが毎回ほほえましかった。「お昼にカレーライスを食べるか、ラーメンを食べるかと悩むとき」といった例を真面目な顔でおっしゃる。「ソクラテスが毒杯を仰ぐか、国外に逃れるかに悩むとき」などといった高尚な(?)例はめったに使われない。中川先生の講義は、無用な難解さや不必要なもっともらしさというものを一切排することに主眼があるようで、とにかく本質を端的にとらえ、分かりやすく述べるということが重視されていた。この端的さは、先生が学生に求めたことでもある。誰々の何々という学説におけるこれこれについて……などとは訊かず、端的に「魂について論じなさい」と要求したのは、後にして思えば、いかにも中川先生らしい。
 先生はアウグスティヌストマス・アクィナスを中心とする中世哲学の研究者であられた。だが、授業で扱われたテクストは中世に限ることなく、私が出席した演習ではアリストテレス『弁論術』、デカルト省察』、キケロ『発見について』などを原典で読んでくださり、講義形式の授業ではプラトンパイドン』、カント『純粋理性批判』『実践理性批判』など多岐にわたって講じてくださった。哲学書の内容を注釈する際には、そのテクストが成立した時代に関する政治史・社会史的背景を説明してくださり、ラテン語の語学的説明をされる際にも、ある語がギリシア語ではどのような意味で現代西欧語ではどのような意味に変化して残っている、語源を同じくするのはどのような語であるといったことを教えてくださった。毎回の授業で、ひとつの対象の説明がさまざまなトピックに拡がるような広く深い知識を惜しみなく披露してくださったのだ。先生は、言葉の真の意味で homme de lettres(文人)、つまり古きヨーロッパが理想とした教養人であった。歴史のことも芸術のことも、うかがえば何でもご存じであるのに、それをあからさまに見せることはなく、哲学の専門研究者として謙虚にふるまわれていた。先生とは大学図書館の意外な場所(つまり哲学関係以外の本がならぶ書架。例えば法律学政治学の洋書が集中的に配架されている三田南館地下書庫など)でお目にかかることも多くあり、そんなときどのような本を探されていたのか気になったものだ。そういえば先生は三田の研究室で夜遅くまで仕事をされていることも多かったようで、第一京浜をまたいで田町駅にのぼる階段のあたりで、二十三時頃に先生とすれ違うことが何度もあった。私は大抵田町近辺で酒を飲んだ帰り、先生は明らかにお仕事帰りのご様子だった。先生のご病気は、学問と校務・学会運営などの激務が祟ってのことであろう。還暦を過ぎたのちもお仕事をセーブするということのなかった先生の勤勉さが今となっては悔やまれる。
 傑出した哲学研究者であり一級の知識人である中川先生は、学生にとっては、学問的厳密さを要求する一方で、心優しく面倒見のいい教師であった。先生の授業がすこぶる明快なものであることはすでに述べた。加えて、先生は履修する学生のための配慮をつねにおこたらなかった。授業で読むテクストは、まずラテン語なりギリシア語なりの原典が配られる。そして、その諸国語訳や注釈書の情報が、先生のウェブサイトに詳細にわたって掲載される。そこで言及されている書物が慶應大学の図書館にある場合、所蔵されている地区から蔵書番号までがサイトに記載されており、履修者がその書物に容易にアクセスできるよう細心の配慮がなされている。学問上のことであれ大学の学事関係のことであれ、質問をメールで送れば、即座に的確な返信を送ってくださる。私が出会ったときすでに中川先生は哲学科のなかで最年長の教員の一人であったはずだが、コンピューターの操作にも習熟されていたのだ。さきに述べたウェブサイトはRoom 206と題さており(これは先生の研究室の部屋番号に由来する)、簡潔で見やすいデザインで、有益な情報が数多く掲載されたものであった。
 哲学科の学部生時代に事情あって私が休学した際、学科の責任者として対応してくださったのも中川先生であった。先生は、学者としては厳密さと精確さを人一倍重んじる厳しいかたであったが、大学人としては、学事上の役職にある者がときにみせるリゴリスムとは一切無縁で、学生のことを親身に考え、しかも世知に通じた大人の対応をしてくださった。のちに講義でカントの定言命法を明快に説明してくださることになる中川先生は、休学の手続きに際して、ある種の必要悪というべき行為を私に指示された。その内容をここに述べることは先生との仁義に反するので遠慮したいが、むろんそれは、人を傷つけたり、それによって誰かが害を受けたりするような類の悪ではないことは明言しておこう。私は中川先生の、おそらくカント的にはありうべからぬ行動規範によって、大いに助けられることになる。
 中川先生とお酒をご一緒させていただいたことは二度ほどしかなかったが、先生はいくぶん饒舌になるほかは、平素と少しも変わらないご様子で、楽しい宴席であったことを記憶している。ふだん喫煙されることはなかった先生が、酒席では「煙草は吸わない。だけど人の煙草は貰う」といって、学生から貰い煙草をしていたのがほほえましかった。   
 ほほえましいエピソードは数限りなくある。私が大学院の試験を受けたとき、中川先生は大学院文学研究科委員長の職にあった。いうまでもなく大学院組織のトップなのだが(そして、学内では言語文化研究所所長を兼任、学外では中世哲学会会長の職に就かれていた)、誰よりもマメに仕事をされている様子が、先生のお人柄を物語っていた。たとえば受験者控室の管理をしている若い先生方の座る椅子が堅そうに見えたのだろう、どこからかクッションだか座布団だかのようなものを調達してきて、自ら配って回られていた。何も中川先生がなさらなくとも、と思ったものだ。先生はそういうかたなのだ。
 その後、私は大学院でも、断続的にいくつもの授業で中川先生のお世話になった。昨年はキケロの『発見について』というテクストをラテン語で読んでいただいた。この一月にも賀状をいただいたばかりであり、一九四八年生まれで六一歳の先生の訃報は、いまもって信じがたい。決して軽いとはいえないご病気とのことはうかがっていたが、亡くなるにはあまりにお若い。お辛かったことであろう。発病されてから逝去されるまでが比較的短い期間であったのが、せめてもの救いである。授業でプラトンやカントを参照しつつ魂の不死を講じていた中川先生ご自身は、死後の霊魂の行方をどう捉えていたのだろうか。先生の魂が安らかであることを祈りたい。