ヴァレリー『ドガ ダンス デッサン』

ドガ ダンス デッサン

ドガ ダンス デッサン

 ポール・ヴァレリードガ ダンス デッサン』(清水徹訳、筑摩書房、2006年)を読む。原書は Paul Valery, Dogas Danse Dessin, Paris, Gallimard, 1938. 邦訳はこのほかに吉田健一訳『ドガに就いて』がある。

 ドガがデッサンしたダンスという三つのDを論じたこの本のなかで、ここでは「ダンスについて」という章を取り上げよう。
 運動と舞踊は異なる。運動は或る目的への空間的・時間的・論理的な到達を意図する。運動は目的を果たされると同時に消散する。運動は過程である。例えば目の前にある水差しを掴むという身体運動を考えよう。手を伸ばす運動は、手が水差しを掴んだ瞬間に消失し、このときすでに水差しの把持という別の運動が生じている。
 これに反し、舞踊とはそれ自体が目的であり結果であるところの身体行為である。

 どこかに位置を確定された目標によって動作の進展が触発されることも、限定されることもなく、進展が惹き起こされることも、結末に到ることもありえない、そういう動作があるのだ。

 したがって、舞踊の理想形は無限の運動である。それは幾何学で理想的には無限の長さを持つ直線が想定され、実在の線分はその部分であるにすぎないと考えられることに似ている。静止している状態から舞踊が開始されるのではなく、永遠に続く舞踊が不意に中断されるのである。踊っている姿こそ、舞踊手の身体にとっては常態なのである。

「ダンスの世界」には休息というものの占めるべき位置がない〔…〕。動かずにいるのが力ずくで強いられたもの、一時的な、いやほとんど暴力的な状態であり、それに反して跳躍、歩調をとった歩み、トウで立つこと、アントルシャ〔跳びあがっているあいだに両足を数度打ち合わせる動作――訳注〕あるいは眼がくらむような旋回がじつに自然なあり方、また自然な行為の仕方なのである。

 イデア的な舞踊は時間においても形態においても無限定である。重力にも従わず、疲れをしらず踊り続ける。むろん、そのようなダンスは人間にはできない。ヴァレリーマラルメを引く。「踊り子とは踊る女ではない、というのもそれはひとりの女ではなく、また彼女は踊るのではないからだ」。そしてヴァレリーは、驚くことに、理想の踊り子の姿を水母に見出すのだ。

 このうえなく自在な、このうえなく柔軟な、このうえなく官能的なダンスをわたしが眼にしたのは、巨大な「水母」を映したスクリーン上においてであった。それは女ではなかったし、踊っているのでもなかった。/女ではない、半透明で感じやすい、ある比類ない物質からなる生物、刺激に途方もなく敏感に反応するガラス状の球体、ふんわりと漂う絹の円盤[ドーム]、ガラス質の透明な王冠、活きいきした細長い帯にはたえず迅速な波動が走り、房飾り[フリンジ]とギャザーは皺を伸ばしたり縮めたりする、そんなあいだも、海月たちはくるりと身をひるがえし、かたちを変え、舞いあがってゆく、まわりから圧してくる流体と同じように流れ、その流体と一体化して、あらゆる方面から支えられ、海月がわずかに身をよじっても流体は場をゆずり、そしてまた海月のかたちに満たされる。

 私はかつて、かくも官能に満ちた水母の細密描写をみたことがない。エルンスト・ヘッケル(Ernst Haeckel,本ブログ昨年12月16日参照)が読んだら狂喜するような文章である。この途切れなくつながる長文そのものが、永遠の舞踊を続けるかのようだ。
 それでは女の踊り子はどうか。ヴァレリーは続ける。

 いまだかつて、女の踊り子が、情熱に興奮した女が、この巨大な「海月」のように、動きと、みずからの過度の力の毒と、欲望にあふれた眼差の激しい現前とに陶酔して、みずから拒絶を受け容れぬばかりにセックスを捧げものとして示し、身振りで売春の欲求への呼びかけを表現した例はない。この巨大な「水母」は、花模様に飾られ、いくつも重なったスカートを急激に波うたせ、そのスカートを、繰り返し、異様なまでにみだらな執拗さをもって、たくしあげ、またたくしあげて、「エロス」の夢と化する。と、突然、顫動するひだ飾りと、切り取られた唇のごとき衣裳のすべてをかなぐり棄てて、逆立ちをし彼女自身を狂おしいばかりに剥きだしにさらけだす。
 しかし、たちまち彼女はわれに返り、身ぶるいして、その空間のなかにひろまり、気球に乗って、光輝く領域へと上ってゆく、星と死の空気の支配する、禁じられた領域へと。

 このエッセイはここで終わっている。売春云々の記述は、当時の踊り子がダンサーであると同時にクルティザヌ(courtisane;高級娼婦)でもあった*1ことを念頭において読む必要がある。そしてフランス語で水母 la meduseが女性名詞であることにも注意しよう。ここでクオーテーションつきで表記された『「水母」』はリテラティムな意味か、踊り子のことか、あるいは更なる具体的な比喩か。われに返った「彼女」とは、踊り子なのか水母なのか。 むろん、そんな詮索は無益である。女になり水母になる変幻自在な踊り子、星と死の世界*2でくりひろげられるその変幻の動きこそ、もっとも官能的な舞踊である。

*1:いうまでもなく、踊り子=遊女というのはベル・エポックのフランスに限った現象ではない。例えばわが国の白拍子などもダンサーであり、娼婦でもある。

*2:水中生物の神秘を海の星になぞらえるテクストでこれに匹敵する美しさを持つものはヘーゲル『自然哲学』(Hegel, Die Naturphilosophie,1830)である。「海は天の星が天の川にぎっしり集まるように、水中に星の軍団を形成するが、天の星が抽象的な光の点にすぎないのにたいして、海の星は有機体からできています。天の光は、できたばかりの荒けずりの光だが、海の光は動物から発するか、動物にむかわんとする光であって、腐った木が光るのに似て、生命力の微光であり、魂が外へと出てきたものです」(長谷川宏訳、作品社、2005年)。