ニルス・タヴェルニエ監督『オーロラ』(2006年・仏)

 ニルス・タヴェルニエ監督『オーロラ』(原題 Aurore、2006年・仏)を見る(実際に見たのは昨日だが便宜的に今日の日付けで書く)。劇場は渋谷のBunkamuraル・シネマ。バレエの映画ということで、私の知人にはバレエ好きも映画好きも多いので誰かしらに会うだろうと思ったら、案の定、仏文学徒IS嬢と出会う。観客は9割が女性、中にはバレエをやっているのだろう(昔やっていたのだろう)と思わせる雰囲気の女性もみられる。
 本作はマルゴ・シャトリエとニコラ・ル・リッシュが主演のほか、パリ・オペラ座のダンサーが多数出演している。タヴェルニエ監督の前作はオペラ座バレエのドキュメンタリー『エトワール』であった。

 そこは踊りを禁じられた王国。ところが王女オーロラは誰よりも踊りが好きだった。そんな娘に頭を痛める王。やがて王国は財政難で危機に陥る。王は、オーロラ姫を金持ちの国の王子に嫁がせるしか道はないと、婚約者を見つけるための舞踏会を開くことを決断する。しかしオーロラ姫は、見合いの肖像画を描くため宮廷に呼ばれた画家の青年に恋してしまう。
http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=326040

 ペローの童話『眠れる森の美女』に材を得た劇映画。
 踊りを禁じられた国という着想は、むろん『眠れる…』の機織りの禁止に対応しているが、歴史的にはダンスが禁じられたという経緯は実際にある。たとえばアイルランドの人々がダンスを禁じられために、窓の外から見られても踊っているようには見えない踊り、リバーダンス(アイリッシュ・ダンス)を考案したことはよく知られている。ダンスは権力にとって危険な反抗の契機となりうるものとして警戒された。ちなみに監督は次のように語っている。

「実は、この映画は、グレース・ケリーの人生にヒントをもらっているんです。グレースはモナコの公妃となって、女優をあきらめました。オーロラの母親である王妃も、家庭に入り、母となることによって、自己実現のための踊りをあきらめました。王妃の時代には、それが結婚の絶対の条件だったんですね。もちろん、そのことによって幸せになる人ももいるけれど、自分を表現できないで不幸になる人もいると思います。僕はこの映画によって、心底、女性にとっての自由とはなにかを語りたかったんです」
 ――オーロラも同じ運命を辿ろうとしているわけですね。
「ダンスを禁するということは、一つの枠組みを作るということのメタファーなんです。オーロラ姫はこの枠組みの中にいるかぎり自由にはなれない。(…)」
(『オーロラ』パンフレット、12頁。インタヴュアー:和久本みさ子

 オーロール王女を演じるマルゴ・シャトリエはパリ・オペラ座バレエの新星。撮影時16歳。私は10代の舞踊手にはほとんど魅力を感じないが(若い舞踊手は体つきが貧弱で…)、10年後の踊りを期待させるすばらしいダンスであった。王女が恋する絵描きを演じたニコラ・ル・リッシュは言わずと知れたオペラ座のエトワール。劇中、各国から王女に求婚におとずれる王子たちと3回の舞踏会が開かれ、それぞれカデル・ベラルビ、竹井豊、ヤン・ブリダールといった舞踊手たちが王子を演じる。一人めの王子の舞踏会ではマリ=アニェス・ジロの踊るベリー・ダンスめいたダンス・エグゾティック(異国風の舞踊)が披露される。イリ・ブベニチェクとオットー・ブベニチェク(双子だという)のダンスは見事だ。ジロの身体はどうだろうか。あの筋肉のつき方はどうも美しくない。これを「恵まれた肢体」などと評する者があることに驚く。竹井豊の演じるのは「ジパンゴ国」(笑)の王子。むろんイマジネールな日本のことである。嫌な予感がしたが、案の定、石膏で固まった女性舞踊手や白塗りの舞踊手たちが現れた(笑)。暗黒舞踏である。前衛の舞踏くんとも言う*1。王女は「ひどい王子よ。結婚はイヤ」。無理もない。
 マルゴ・シャトリエはまだどう見ても子供だが、しかし、ときおり、一定のアングルで一定の瞬間のみ、非常な官能性を見せる。これこそ王が禁じたダンスの魔力である。王女と彼女の弟の、どこかアンセストを思わせる危うい関係もダンスが呼び起こすものである。そんな魔力をどこまで映画で表現できるか、多くのバレエ愛好者は(そして映画ファンも)疑うだろうが、本作はなかなか善戦していると思う。
 ニコラ・ル・リッシュは絵描きの役を演じるので出演シーンは少なくないものの、ダンス・シーンがきわめてわずかで、後半の数分間だけなのが残念だ。彼のファンは失望するだろう。まあ、これはバレエ映画(つまりバレエの舞台をそのまま映画にしたような、物語の筋自体をバレエで表現する映画。例えば『赤い靴』や『絹の靴下』等)という形をとらず、普通の劇映画として、要所要所にバレエのシーンがあるという演出なので仕方がないといえば仕方がない。
 後半、妖精が現れたり、幻想シーンが多くなってCGが多用されるのが少々うるさい。ジャン・コクトー美女と野獣』、ジャック・ドゥミロバと王女』のようにロー・テクで仕上げてほしかった。レアリスムは寓話に何ら益しない。そもそもバレエはレアリスムの藝術ではない。  
 日本公開版にたいして、ひとつはっきりと苦言を呈したい。固有名詞ぐらいはきちんと表記しようではないか。原題 Aurore (オーロール)は仏語で第一義的には「曙」「曙光」の意味である。オーロラ(aurore polaire; 極光)という意味がないわけではないが、一般的ではない上に、この物語ではメタフォリックにも物理的にも極光は一切あらわれない。それに、すくなくとも固有名詞として使われているのだから、日本の翻訳の慣例では現音主義でオーロールと読むべきである。英語読みはいけない。ラストで王女に弟が「光の中で踊って」と言う場面があり、字幕では「光の中」にオーロラとルビが振られている。いい加減なことをしてはいけない。王女が夜明けの光のなかで踊りながら旅立っていくシーンである。夜明けの光だからこそ、オーロールという掛け言葉が生きるのである。まあこれはバレエ『眠れる森の美女』のオーロール王女をオーロラ姫と訳し続けてきた慣習を踏襲してのことらしいが、誤訳は誤訳である。良識ある論者は「オーロール王女」とか「あかつき姫」という具合に訳している。

公式サイト
・邦語 http://www.aurore.jp/
・仏語 http://www.aurore-lefilm.com/

*1:漫画家・西原理恵子さんの造語。