clair-de-lune2006-06-04

 米国の小説家・社会思想家エドワード・ベラミー(Edward Bellamy, 1850-1889)のユートピア的物語『顧りみれば』(Looking backward, Boston, 1888) を読む。翻訳は山本政喜訳『顧りみれば』(岩波文庫、1953年)、中里明彦訳「かえりみれば」(『アメリ古典文庫 第7巻 エドワード・ベラミー』所収、研究社、1975年)。後者が読みやすい。

エドワード・ベラミー (アメリカ古典文庫)

エドワード・ベラミー (アメリカ古典文庫)

Looking Backward (Penguin Books with Teachers Guides)

Looking Backward (Penguin Books with Teachers Guides)

 その日は1887年5月30日。ボストンに暮す青年紳士ジュリアン・ウェストは婚約者イーディス・バートレットの家を訪れ彼女の一家と食事をした夜、自宅に戻る。彼には不眠症の気があって、その日に先立つ二日間、睡眠をとっていない。今夜もまた寝付けない。彼は、自宅の地下にある、厚いセメントの壁でおおった静寂を確保した一室へと降り、ベッドに横たわるが、やはり眠れない。仕方なく、彼は「動物磁気教授」を呼び寄せ、催眠術を施してもらう。ようやく、甘美な眠りがウェストを襲った。
 ウェストは目を醒ました。男の声がきこえる。彼の言葉はウェストを仰天させる。「今日は2000年の9月10日です。ですからあなたは、(…)113年と3ヶ月と11日間眠っておられたのです」。
 ウェストは、ホラ話でかつがれていると疑う。半信半疑で事の次第を男に尋ねる。男はおおむね次のような次第であるという。
 男は庭に実験室をつくるため工事をさせていた。庭を掘り返してみると、19世紀の様式の地下室が現れた。地下室の上には灰の層ができており、地上の建物が火事で消失したらしいことがわかった。その中を探してみると、中にベッドがあり、男が一人横たわっている。屍体かとも思われたが、蘇生術をほどこしてみると、生き返った。ウェストは、空気の通わない地下室で、いわば冬眠のような状態で保存されていたのだ。
 そんな説明をされてもにわかに納得はできない。ウェストはいぜん、手の込んだいたずらでかつがれていると信じ込んでいる。しかし男につれられて家の屋上にある見晴し台へと上り、近代化したボストンの街をみて、ウェストはようやく113年の眠りという事実をうけいれる。

 理性をとりもどしたウェストに、男は自己紹介をする。彼の名はドクター・リート。医者であるらしい。ウェストも名をなのる。そしてドクター・リートの妻と若い娘にも紹介される。ふたりとも美しい女性だ。そして驚くことに、娘の名はイーディスであった。ウェストの婚約者と同じ名前。彼女は何か特別な興味を感じているらしく、うっとりとした表情でウェストをみつめる。

 夜が更けて、リート夫人とイーディスがひきとるが、ウェストとドクター・リートはさらに興が乗って、談話をつづける。ドクターは19世紀の社会を「かえりみ」る。
 19世紀末、労働者は団結してストライキを繰り返したいた。無論、彼らを雇用する資本家への抵抗のためだ。大資本が発達し、工場も鉄道もトラストが支配する。小資本は大資本に併合される。小資本の企業にたいしては個々の労働者も相対的な重要性を持っていたが、大資本にたいしては、無力な一労働者に過ぎなくなり、大資本のほしいままにされる。労働者たちは労働組合を組織し、ストを行う。だが、その労働運動の甲斐なく、少数の大資本への事業の統合の勢いはとまらない。なぜか。労働者の抵抗が不十分だったためか。否、そうではない。大資本への統合には経済的な必然性があったからだ。つまり、どのような産業にしても、小資本で小規模に行うよりも、大資本で大規模に行うほうが効率がよいのである。したがって、資本の統合は必然であり、むしろ社会の進化とみなすべきものだ。その行き着くところは、国全体の資本を一つに合同すること、つまり、国全体が一つの会社となって、あらゆる事業を、全社員=全国民で行うことである。かくて、資本の少数独占は、唯一の資本の独占へと極限化された。アメリカがこのような変革をなしとげると、ヨーロッパや豪州、メキシコ、南米もこれにならって産業を独占国有化した。

 全産業が国によって運営されるようになると、当然、雇用−就労の形態も従来とは異なってくる。国民とは、国=会社の社員である。よって、国が直接個人を雇用することになる。さまざまな産業へと、国が国民を直接配置する。これは、いわば国が兵士として国民を徴用するのと同じである。「あなた方は(…)一般徴兵制の原理を労働問題へと適用されたわけですね」。この軍隊式に雇用=徴用される労働組織は「産業労働隊」と呼ばれる。これは全国民が入隊する、いわば国民皆兵制である。
 ドクター・リートはまた、2000年の社会には、商人や銀行も存在しないという。
「必要ないろいろのものを無数の人々が生産していたときには、みながそれぞれ欲するものを供給するために個々人のあいだで無限の交換が必要でした。その媒介物として貨幣が必要だったのです。しかし、国があらゆる物資の唯一の生産者となったとたんに、交換の必要がなくなりました。国の倉庫から直接に配分する制度が商業にとってかわり、貨幣もいらなくなったのです」
そして、配分される物資を受け取るために、一定の「金額」が記入された「クレジット・カード」が全国民に与えられる。重要なのは、このカードが、金額が記されてこそいるが、本質的な意味では「貨幣」ではないということだ。なぜなら、このカードにしるされる金額は、職業・年齢・性別・仕事の能力などに関係なく全国民で同一であり、そのクレジットの一部であれ、他人に譲渡することは許されていないからだ。あくまでも、個人と国との取り引きにだけ使われる。「その人が人間であるという資格」に基づいてクレジットは発行されるのだから、万人の発行額は同一である。
 買い物は地区ごとにおかれた「店」で行う。カードを持って店に行き、商品見本から必要なものを選ぶ。店員は客のクレジット・カードから一定額を差し引き、商品配送の手続きをする。品物は後日自宅に送られてくる。店は全国にあるが、すべて国営なので、店ごとに値段が違うとか、商品の種類や質がことなるということはない。

 こうしてリートの一家(主にドクターとイーディス)はウェストに2000年の新社会の仕組みを次々と教える。警察制度、監獄、食堂、国際関係、女性の地位、宗教……。社会の全領域に及ぶ長い長いやりとりが、日ごと夜ごと続く。

 物語はやがて二人のイーディスをめぐって、いくらかの驚きを読者に与えることになるが、すでにこの未来社会の姿は充分に素描されたので、要約はこのぐらいにしよう。

 この未来社会は欲望とその充足が完全にコントロールされた世の中だ。必要なものを必要なだけつくり必要なだけ消費する社会。「必要」=「欲望」という等式のなりたつ社会。ひるがえって、私たちの社会、ベラミーがこの小説を執筆した19世紀終盤の延長線上に位置する高度資本社会は、欲望とその充足の関係がきわめて複雑化している。ある欲望があって、それに応える方法が生み出されるのか、それともなんらかの技術や差異が生み出され、それによって欲望が引き起こされるのかわからない。「必要」と「欲望」は一致していない。欲望が欲望を喚起する絶え間ない衝迫に駆り立てられている息つく間もない社会ともいえる。この社会に何らかのオルタナティヴを求める者は少なくなかろう。だが、ベラミー型の計画経済がそのまま実現するとは考えにくい。21世紀初頭に生きるわたしたちは欲望と充足の計画経済が、悲劇的な破綻を迎えた歴史を目撃している。わたしたちが今ユートピアを構想するとしたら、どのような社会が考えられるだろう? もはやユートピア的想像力をわたしたちは行使しえないのだろうか。


※ 本書は明治期に早くも邦訳されている。
 + 平田廣五郎訳『百年後の社会』、警醒社、1903年
 + 堺枯川堺利彦)抄訳『百年後の新社会』、平民社、〈平民文庫〉、1904年
いずれの訳も国会図書館近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/ でアーカイヴ化されているので、興味のある方はご覧いただきたい。いずれの訳でも固有名詞が日本語に置き換えられていて(堺訳ではウェストは西野となっている)愉快である。