小潟昭夫先生の思い出

 今を去る2年前、2008年10月、慶應大学の教養課程在学中に知遇を得て以来お世話になりつづけていたフランス文学者の小潟昭夫・慶大経済学部教授の訃報に接した。2008年10月14日未明、勤務先である慶大の日吉キャンパス研究棟〈来往舎〉内で急逝された。享年64歳。逝去された翌日の夕刻、知人から電話で知らせをうけ、言葉を失った。折りしも、彼の論文が掲載されている慶大日吉紀要「フランス語フランス文学」の最新号を手にとったばかりで読もうとしていた矢先。そして実は、彼が地上を去ったまさに当日、どういう話の脈絡であったかはすでに思い出せないが、たまたま拙宅を訪ねた友人に、私は小潟先生からかつて献本していただいた御著書『幻視と断片』(芸立書房)を蔵書の山の中から抜きだして紹介して、先生のことを話題にしていたのであった――。2年の歳月を経てようやく、小潟先生の死について、言葉を発することができるようになった。今夜は酒杯を傾けつつ――先生はお酒がお好きであった――彼の思い出を書き留めておこう。
 小潟先生は慶大仏文科の卒業論文バシュラールを扱われたとうかがっている。私にとって最大の霊感源である、このフランスの思想家が日本でいまだ充分な紹介のなされていない時期にいち早く注目し、研究されたわけだ。大学院ではモーリヤックやヴィクトル・ユゴーを研究され、その後、都市論・映画論などの分野に関心を拡げ、一昔前の世代のフランス文学者たちのなかにそうした人が多くいたように、先生も、視野の広い、自由な学風の研究者として活躍された。みずから小説の執筆や写真・映像作品の制作にも取り組まれ、古きよき文人学者の面影があった。日吉キャンパスでは、学生たちを心から愛した、学生たちが心から愛した、優しい教師であった。私も日吉の学生であったころ、何度も彼の研究室を訪ねては、当時ビデオが入手できなかった貴重な映画のテープを譲っていただいたり、さまざまな御教示をいただいたりした。先述の御著作『幻視と断片』を御恵与いただいたのもこの頃だ。日付と私の名前、先生のお名前につづけて、「蒼天飛翔」と書き込みながら、彼は「マラルメ風にね」と言って笑った。その彼は、あまりに若く、天に飛びさってしまった。
 小潟先生がわれわれ学生をつれて日吉で食事をするときは、いつも日吉駅を挟んでキャンパスと反対側にある「龍行酒家」という中華料理店(今は小青蓮と名を変えているが、当時と同じ美しい女性が店長をつとめている)で、彼は「女児紅」という小さな甕に入った紹興酒を「女の子のお酒」と呼んで毎回註文していた。最後にお目にかかったのは逝去される2年ほど前であろう、何人かの先生方と新宿で食事をとったときだ。文学のなかの雷のイマージュに関する話をうかがったように記憶する。やがて彼の雷研究は「ヴィクトル・ユゴーと雷の詩学」(「慶應義塾大学日吉紀要. フランス語フランス文学」38号、2004年)という論考にまとめられ、妹尾堅一郎編著『雷文化論』(慶應義塾大学出版会、2007年)に「フランス文学における雷――ヴィクトル・ユゴーと雷の詩学」として収録されることになる。学問的来歴のスタート時にバシュラールの洗礼をうけた人らしい、テーマ批評の傑作であった。だが、これも彼の突然の死、まさに雷、「青天の霹靂」としか言いようのない死を予告したようで、今にしておもえばあまりにも悲しい。
 ヴィクトル・ユゴーの研究会も思い出深い。日仏合同のシンポジウムで彼は見事なフランス語の発表を行なったが、そのフランス語が(彼の日本語と同様に)これまた見事な宇都宮弁であったのには苦笑するしかなかった。美しいが、ときに冷たい響きともなるフランス語も、彼が操れば優しい朴訥な言葉になった。そういえば、彼が愛したガストン・バシュラールの肉声を聞いた人によると、バシュラールの声も、バール=シュール=オーブという地方の村出身の男らしい、訛りのある、素朴なフランス語であったという。小潟先生を知る人と話すとき、私はいつも彼の宇都宮弁の口調を真似したものだ。先生にはこうした気取らないところがあって、大学教授然とした堂々たる風貌で身なりもお洒落だったが、せっかくスーツはきめているのにフレームが歪んだ眼鏡を何ヶ月も修理せずかけていたり、AV機材が置いてある部屋に入るためのカード・キーを――札入れにでもしまっておけばいいのに――首から身分証ホルダーに入れてぶら下げていたりしていた(最近のオフィス街ではIDを首からぶらさげた会社員の姿は見慣れたものとなったが、彼は何年も前から、この奇妙な習慣を始めていたように思う)。
 思えば私がユゴーの『レ・ミゼラブル』を、子供向けの抄訳ではなく、岩波文庫版で読んだのは、大学に入学し、小潟先生のご専門がユゴーだとうかがったからである。少女・ファンテーヌのあまりに痛切な運命は子供向けの版では詳細に書かれておらず、その荘重な悲劇性に心打たれたことは、私の学問が、科学史や思想史やその他諸々、専門がないような混沌状態に陥っているものの、その中核に文学を抱いているという唯一断言できる性格をもつようになったことに少なからず影響しているだろう。小潟先生は潮出版社ユゴー作品集でいくつかの作品の立派な翻訳をなさっているが、いずれは『レ・ミゼラブル』の翻訳をなさってくださると私は信じていた。
 先生とは、逝去されるまでの二年ほどは年賀状だけのやり取りが続いていた。いつも日吉キャンパスを縦横に行き来し、研究棟〈来往舎〉で演奏会やダンスの舞台などイヴェントがあると、かならずヴィデオ・カメラを回していた彼の姿が眼に浮かぶ。お祭り(イヴェント)好きで神出鬼没の人だった。仕事が忙しく研究室に泊り込むことも多かったようで、着替えなどが入っているのだろうか、彼は出勤してくるとき、いつも旅行にでも行くような黒いキャリー・バッグを引いてあるいていた。恰幅がよくいつも黒いダブルのスーツを着こなしていた先生の姿は突然の死などとても予想させるものではなかった。いつも映画の上映会の案内状を、自筆で宛名書きした葉書で送ってくださっていたが、なかなか都合がつかず、ほとんど出席できなかったばかりか、お返事の手紙を出すことすらできなかった。いまさら悔いても仕方がないが、何年も前の教え子であった私を忘れずにい続けてくださった先生に、本当に心から申し訳なくおもう。
 訃報をきいた翌16日の夕方、日吉・来往舎内に設けられた献花台に、花を供えにいった。日吉駅裏の商店街にある花屋に立ち寄り、白いトルコキキョウを緑と白の紙に包んで、ごく淡い黄色のリボンをかけて花束にしてもらった。亡き人に手向ける花に黄色いリボンというのはいささか不謹慎な気もしたが、いつも黒いスーツに黄色のワイシャツをあわせる独特の身なりで日吉を飛び回っていた小潟先生を思い出すと、どうしても黄色を使いたかったのだ。映画好きだった彼は、あるいは『黄色いリボン』という映画のタイトルを思い出し、きっと微笑んで許してくださるだろう。献花台は白い花、淡いピンク色の花などで埋め尽くされていた。フランスを愛し、お酒の好きだった彼をおもってのことだろう、赤白青の三色のリボンをかけたカルヴァドスも供えられていた。
 献花し、祈りをささげたあと、私と友人は日吉キャンパスを後にし、駅裏にある先述の中華料理店「龍行酒家」に向かった。小潟先生が好きだった「女の子のお酒」こと「女児紅」をオーダー。酒杯を重ねる。店をあとにするとき、店長にわけを話して、甕を持ち帰らせてもらった。いまも私の部屋には、この甕が置かれている。どことなく可笑しみのあるこの甕は、どこか抜けていてチャーミングなところのある小潟先生にそっくりだ。
 小潟先生の遺作、ちょうど私がそれを読もうとしているときに彼の訃報に接することになった最後の論文は、「結婚、不義密通そして愛 : ユゴー・サンド・ドビュッシー(その1)」(慶應義塾大学日吉紀要. フランス語フランス文学」第47号、2008年)というものである。最後の最後に「不義密通」などというタイトルの論考を残して旅立ってしまったところが、いかにも小潟先生らしい。耐え難い悲しみに打たれている者を、つい苦笑させてしまう。彼はかつて日吉の新研究棟〈来往舎〉が落成した直後に、「キャンパス空間と身体」という写真展を開催した。彼が愛し、そこから早すぎる旅立ちをとげてしまった日吉は、すっかり寂しいキャンパス空間になってしまった。本当に惜しい人を失った。