国際会議 ユビキタス・メディア――アジアからのパラダイム創成

 東大本郷で国際学会に出席。
○公式ページ
http://www.u-mat.org/jpn/index.html
○メタ・スペース(発表内容のサマリー、速記録など)
http://meta.u-mat.org/

堀場国際会議
ユビキタス・メディア: アジアからのパラダイム創成
—The Theory Culture & Society 25th Anniversary

会期: 2007年7月13日(金)〜16日(月・祝)
場所: 東京大学 本郷キャンパス 安田講堂・工学部2号館

開催主旨
今日、メディアの世界は激変し、私たちの社会を根底から変容させている。インターネットや携帯電話からデジタル・アーカイブやゲーム、アニメなどのコンテンツ産業、仮想現実、iPodのような小型のデジタル媒体の普及、ストリーミング配信や各種の音楽配信技術、ブログやコンテンツ・マネージメント・システム(CMS)等の発達といった状況のなかで、これまでのマス・メディアを中心にしたメディア理論(例えば、送り手‐受け手モデル)は有効性を失い、まったく新たなパラダイムが求められている。このような技術的、社会的状況の中で、本国際会議は、新しいネットワーク型のデジタル情報社会に対応したメディア理論のパラダイム革新を世界に向けて宣言する会議となる。

この会議ではここ十数年の間に世界各地で異なる仕方で台頭してきた様々な情報技術とコミュニケーション様式に焦点を当て、世界中から集まった卓越した研究者や若手研究者が熱心な議論を重ねながらメディア理論の新パラダイムを構想し、20世紀後半を通じてアメリカを中心に発展してきたマス・コミュニケーション理論に対し、むしろデジタル・メディアの時代に照準した新しい知識パラダイムを東アジア、とりわけ日本から発信することで、メディアをめぐるアカデミックな知の地政学的秩序を大きく変化させていく第一歩となることを目指す。

主催団体
●堀場国際会議「ユビキタス・メディア:アジアからのパラダイム創成」 は、 東京大学大学院情報学環東京大学大学院総合文化研究科、英国ノッティンガム= トレント大学セオリー・カルチャー&ソサエティセンターの3者により主催されます。
●堀場国際会議は、堀場雅夫氏及び株式会社堀場製作所のご寄付に 基づき、東京大学の学内から公募・選考される国際会議です。

 今日は1日目。午後5時。来場者があまりに多く、安田講堂の入場ゲートは大混乱。結局、参加費支払い等の手続きは後日でよいということになり、受付手続きなしで会場に入れることに。フリードリッヒ・キットラー蓮實重彦の基調講演を聞く。
 会場で科学論専攻の美女Nさんと会う。
 時間ぎりぎりであいている席に座ったら前から2列目中央。目の前の席には小宮山宏東大総長、その左には蓮實重彦氏、さらにキットラー氏。右手にはバーバラ・スタフォード女史、というとんでもないところに座ってしまった。
 キットラーの話はドイツ語なまりの英語で何を言っているのかほとんどわからない。レシーバーから聞こえてくる日本語同時通訳もやはりわからない*1。そもそもあまりに抽象的で、耳だけで聞いて分かる話ではないのだ。
 続いて蓮實さんの話*2。これはきわめて明快。彼はいつも単純なことしか言わないのだ。要約してみよう。

 ここで蓮實が提示するのは「トーキー映画はサイレント映画の一形式である」という仮説。つまり映画というのは、現在のトーキーでも映像と音声を同時に記録できるものではない。フィルムには映像を、磁気テープには音声を収録し、両者をシンクロさせて、上映するものにすぎない。だからトーキーといえども、それはサイレント映画を上映し、その側でテープレコーダーを再生しているにすぎないというのだ。この仮説が述べているのは、映画における音声の著しい従属的身分である。そもそも映画を撮影するキャメラは高速でモーターを回転させるため、大きな駆動音を立てる。この駆動音は撮影現場で役者の発するセリフを収録する際に大きなノイズとなる。また、音声はマイクで収録されるが、そのマイクは絶対にキャメラのフレーム内に存在してはならず、照明によって影が生じる位置にあってもならない。だから音声はつねに映像に対して従属している。これは現在にいたるまで基本的にはかわらない。だがディジタル・ヴィデオによって映画を撮る監督が出現してきている。そのなかには先鋭的な映画作家と呼びうる、ペドロ・コスタ青山真治という名前も存在する。彼らがディジタル・ヴィデオで撮影した映画は、はたして依然サイレントの一形式であるのか・・・。ところで、「トーキー映画はサイレント映画の一形式である」という仮説は我々になにを教えるのか? それは映画における表象不可能性の問題への一つの疑義である。つまりランズマン対ゴダールによる「アウシュヴィッツの表象不可能性」論争(およびその代理戦争である、ジェラール・ヴァイクマン対ディディ=ユベルマンの論争)*3において決定的に欠けているのは、音声である。彼らが表象可能/不可能と述べるとき、そこで念頭におかれているのは画像・映像であり、音声ではない。アウシュヴィッツガス室で駆動していた装置の音、ユダヤ人たちの阿鼻叫喚の問題はどうなるのか? それは広島でも9.11でも変わらない。9.11の報道映像において決定的に不在だったのは音声である。映像と音声を同時記録できるはずのディジタル・ヴィデオがとらえていたはずの光景に、音声は存在しないのだ。したがって、21世紀の最初の年におこったこの出来事は、依然、サイレントの20世紀に属しているのである。

 言われてみれば実に当然のことだが、このような指摘をした論者はなかっただろう。アドルノ&ホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』、デリダ以降の音声中心主義批判、そして表象不可能性の論争。これらを一直線に結べばおのずと出てくるはずの議論だが、こういう単純なことを、あの馬鹿馬鹿しいといえば馬鹿馬鹿しい(そのことに本人も大いに自覚的である)独特のレトリックで、さりげなく述べてみせる蓮實重彦は(ハスミ虫とよばれるエピゴーネンたちの挙動がいかに愚劣であるといっても、それは蓮實の責任ではない)やはりすなおに偉大だと言ってよいと思う。
 ところで蓮實さんのこの話、ようするに、映画というのは放っておいても映像と音声がシンクロするわけではない、ということなのだが、これはもしや、あの映画のことを言っているのか? あの映画のことを(笑)。本ブログ7月4日を参照。

 19時半ころ、基調講演終了。Nさんと本郷三丁目駅近くの名曲喫茶「麦」で食事。しばらく彼女と話していると、背後から私を呼ぶ声。尊敬するフランス文学研究者、フロベルシエンヌのAYさんであった。こういうとき声をかけてくださるAYさんは、やはり素晴らしい方だ。なかには、私が気が付くまであえて声をかけず、他所に伝わったら支障がありすぎる話を調子に乗って延々続ける私の背後でじっと聞き耳を立ててメモをとったりする人もいるので(笑)。帰路を心配するNさんが帰宅された後、やはりさきほどまでユビキタス国際会議の会場にいたというW氏に来ていただき、軽く飲む。

*1:通訳が下手だという意味ではなく、元の話がそもそも晦渋なのだ。

*2:蓮實氏の話を聴くのは実は数年ぶりである。彼は講演の名手で、淡々と、しかし淀みなく話をする人であることを私は知っているが、この日は珍しく、ずいぶんと喉の滑りが悪そうで、何度もいい間違えたり、言葉が淀んだりする様子が見られた。風邪気味だったのか、緊張されていたのか、さすがにいくらかお歳か、少々心配な気がしないでもなかった。

*3:アウシュヴィッツはイメージ化(表象)不可能であるとするランズマンおよびヴァイクマンに対して、それでもなお表象できる・表象しなければならないと主張するゴダールおよびディディ=ユベルマン。次の文献を参照:ジェラール・ヴァイクマン「《聖パウロゴダール対《モーゼ》ランズマンの試合」(堀潤之訳、四方田犬彦・堀編『ゴダール・映像・歴史』産業図書、2001年所収)、ディディ=ユベルマン橋本一径訳『イメージ、それでもなお』(平凡社、2006年)。