ユビキタス国際会議2日目

 2日目、ひどい雨になった。今日もNさんとご一緒する。会場で舞踊史研究者のSH氏にお目にかかる。
 午前中、ベルナール・スティグレールの講演。「目的論:カタツムリについて(téléologiques. De l'escargot)」。目的論 téléologie の télé- という接頭辞を「遠隔」の意味に解し、遠隔物を結ぶものである「メディア」(例えばいま深夜の書斎でこの日記を書いている私と、一定の時間が経ったのちどこか離れた場所にで、これを呼んでくださっているあなたとを時間的・空間的に結合するインターネット)を、目的論的なものとして論じる。昨日のキットラーほどではないが、やはり耳で聞くだけでは、よくわからない。しかし欧州の哲学系の学会では、このスタイルが多いようだ。彼らは耳で聞くだけで、こんなに抽象的な話がわかるのか。meta space のページを引用しておこう。

目的論:カタツムリについて

殻を背負って歩むカタツムリは望遠鏡のような目を突き出している:それはアンテナと言えるかもしれない。カタツムリが殻を運ぶように、わたしはテレビ電話のような外的記憶によって、対象化された記憶─それはシモンドンが「自我の連結的心的境域」とよんだ記憶である─というわたしの心的境域を至る所に持ち運ぶようになる。

 人間の社会は着脱可能な技術によって構成されているが、この技術はいわば抜け殻で、そこに住まう生物の可動性の条件─その「運動kinésis」だけでなく「転換métabolè」─を変様させ、社会の側はそれに心的-動的機能を預けることで、それを社会的装置とする。この装置は外的記憶の器官によって下支えされているが、プラトンはそれを人工的な記憶がなるに至るところの心的技術の境域の「薬pharmaka」─そのままで遠隔-テクノロジーとして定義されることになる─と呼んだ。

 記憶媒体(hypomnémata)は「薬」つまり治療薬であると同時に毒である。このような治療薬を作用させ、毒になることを避けるには、治療体制が必要となる。それには薬局方と、薬剤師の知では十分ではない医学が必要とされる。この医学が魂の治療術─内的想起、つまり論証術─としての哲学なのだ。プラトンは外的記憶と内的想起を対置するが、人類学が教えるのは外的記憶があらゆる内的想起の条件だということである。

 論証術がこの医学の基礎であり、産婆術である。それは他者だけでなく、他者としての自己との対話であり、それが知性dianoiaと呼ばれた。この医学は心的であると同時に社会的であり、換言すれば哲学は精神の次元にあるものと、都市の次元にあるものを区別しない。それゆえ、この医学─体育のような、身体に対する治療という意味での療法を必要とする以上に─は心的療法であると同時に、そのままで社会的療法なのである。この心的-社会的療法が何よりもまず治療するのは目的télos、あらゆる目標=終わりfinの地平として構成される遠方である。

 この講演でわたしは、それぞれの人にいつでもどこでも遠隔に存在することを可能にする、WiMaxネットと(ほぼ完全に)ユビキタス・アクセスが可能となる時代における目的の問いを検証したい。問題となるのは、「存在すること」がここでは何を意味しているのかということである。それは存在-神学onto-théologieなき個体-発生onto-genèseの境域、つまり目的論が必要とされると同時に切りつめてしてしまうことが可能─危険なまでに切りつめ可能であり、現代では極めて脆弱で、危機に瀕している─なことが明らかになっている存在-目的論onto-téléologie の問いである。

 このユビキタス時代と、そこで形成、歪曲される目的-論の課題は(シモンドンが言う意味での)心的・集団的個体化の新たな─少なくとも、かつて言語にとってエクリチュールがそうだったのと同様に根源的に新たな─境域の「パーベイシブpervasive」な─つまり、わたしの言う一般器官学の三つの層、すなわち生理学的器官、技術的器官、社会的器官に浸透していく─構制である。この新たな境域は隅々まで外的記憶としてあり、目的、つまり医療体制としての集団的欲望の社会的組織化を可能にする目標を変更してしまう。この境域は─欲望なき目的がないとするならば─新たなリビドー経済を要請する。

 目的は、目標と動機が現れ、形成される、遠方と同時に遠隔を指しているが、それが個体的、集団的な可能なものの地平を開く。モバイルのテクノロジーは進むべきどこかを必要としている。目的はこの目的論的なものが形成され、合理化と脱魔術化として理解された近代の終わりにおいて全く評判の悪いものとなってしまっているが、それは構造的に撚り合わせられたものである。目的は、遠隔コミュニケーション、すなわち常に既に遠く、離れたところに外部化する薬として、道具的な意味で目的論的であり、終わりがなく、常に拡張し、遠方にある(技術の)空間を開くが、同時に動機付けを失い、その意味で脱-魔術化され、いわば目的によって目的を奪われることで、それは脅威的力となり、毒として現れる。
 しかし、それは治療薬─沈鬱症、外的記憶を備えた腹足網の沈鬱症の治療薬─でもあるのだ。
http://meta.u-mat.org/plenary/2

 つづいて、人文学のマリア様*1ことバーバラ・マリア・スタフォード女史の講演「われわれのものでない思考:失調した認識システムと切断」。これもわかるようなわからないようなというのが実感。これもサマリーと速記録のページを示しておく:
○サマリー
http://meta.u-mat.org/plenary/2
○速記録
http://meta.u-mat.org/plenary/text/2

 この日は当初予定されていたレム・コールハース浅田彰の講演がキャンセルになったので、「アジアからのパラダイム創生」という討論が急遽行われた。司会は吉見俊哉でパネリストは姜尚中ほか数名。俄仕込みなのは明らかだが、一応、聴きに行ってみる。
 その後、一般演題。一般演題の内容は以下のページで知ることができる(このページがいつまで残存するのか不明だが):
○一般演題プログラム
http://www.u-mat.org/jpn/paper/sessions.html
○一般演題サマリー
http://meta.u-mat.org/session/table
 いくつか聴いた中で、印象に残ったものを挙げておこう。
 まず、畏友・嵯峨景子さんのご発表「明治・大正期女性雑誌の読者欄におけるオーディエンスのインタラクション(The Interaction of the Audience in the Reader’s Column of a Women’s Magazine in the Meiji and Taiso Era)」。明治・大正期の雑誌『女学世界』における、読者のコミュニケーション形態の変化を論じた素晴らしい発表。雑誌の文通欄を介して互いの連絡先を交換し、以後文通をするという「直接的なコミュニケーション」から、雑誌上の投稿欄に手記や小説のようなテクストを女子学生が投稿し、それを誌上で呼んで、自分のテクストをさらに投稿するという「誌上のコミュニケーション」への変化を分析する。パワー・ポイントの画面も見やすく、発表の構成も理想的(サマリーもきちんと発表時刻までにウェブ上にアップされていた。http://meta.u-mat.org/session/301)。発表はこの会議ではすべてイギリス語だが、彼女の発音は(日本語すら耳で聞き取ることが苦手な視覚依存の人間である私にも)たいへんに聞きやすいもので感心した。イギリス語を母語とする者でも(彼女はイギリス語の母語話者である)、実用的な判明性と音声的な美しさを兼ね備えた美しいスピーチをする人は決して多くない。ひとつ気になるのは日本語タイトル。「オーディエンスのインタラクション」という言い方は、「読者の交流形態(の変容)」などではいけない理由があるのだろうか? これは訳せるものはなるべく訳すという私の趣味の問題だから、本質的な疑問ではないが。
 橋本一径氏の発表「客観的主観性:指紋とアイデンティティのイメージ」も聴いてみた。なかなかおもしろい。橋本さんは昨日の日記でも言及したディディ=ユベルマン『イメージ、それでもなお』の訳者。サマリーはhttp://meta.u-mat.org/session/221にアップされることになっているのだが、16日深夜現在、まだ掲載されていない。
 翻訳家・二木麻里さんも発表されている。彼女の肩書きが Univ. of Tokyo となっていたので、ベテランの翻訳家だから客員か何かで講師をされているのだと思ったら、情報学環佐倉統さんのところの大学院生として在学されている模様。演題は「デジタルアーカイヴの批評理論を構築するために」。たしかに批評の対象として、本や映画といった既存の表象形態にならんで、ディジタル媒体によるものが、無視できない規模で増殖している。そのようなディジタル媒体による作品(とくにアーカイヴ)のよしあしを批評する固有の理論の構築という問題は考えられるだろう。二木はさしあたりこれを graphic design, architecture, books(corpus), digital archives という四つの尺度で批評することを提案する。今後細緻化してゆけば、充分に批評理論として機能しうるアイディアだと思う。学問リソース・サイト「アリアドネ」の管理者ならではの興味深い発表であった。詳細はサマリー(http://meta.u-mat.org/session/261)参照(ほんとうは発表時点でこのサマリーが掲載されていれば、なお有難かったのだが)。

 19時近くなって、ようやくこの日のプログラムが終了。会場を後にし、Nさんと食事。正門近くの食堂〈もり川〉へ。ここはいつも混んでいていかにも学生御用達の食堂だが、味がよく、量もあり、値段も安いのでありがたい。

○もり川
http://morishoku.hp.infoseek.co.jp/index.html
 
 

*1:高山宏氏によれば人文地獄にスタフォード菩薩。