黒沢清「叫(さけび)」(2006年)

clair-de-lune2007-03-28

 黒沢清の最新作「叫」を観る。同行してくれたのは畏友W氏。渋谷シネセゾンで18:50の回。

LOFT ロフト』などの黒沢清監督と『呪怨』シリーズの一瀬隆重プロデューサーが初めて手を組んだ本格派ミステリー。ある連続殺人をきっかけに、過去と現在が入り乱れる迷宮に足を踏み入れる刑事の苦悶をあぶり出す。黒沢監督作品7作目の主演となる役所広司が主人公を熱演。『天使の卵』の小西真奈美や『ゆれる』のオダギリジョーら豪華共演陣も見逃せない。すでに世界配給も決定した想像を絶する物語に引き込まれる。

連続殺人犯を追う刑事の吉岡(役所広司)の頭に、ある日、ふと自分が犯人ではないかという疑問が浮かぶ。曖昧(あいまい)な自身の記憶にいら立ち、苦悩する彼を恋人の春江(小西真奈美)は静かに見つめている。吉岡は同僚の宮地(伊原剛志)の勧めに従い、精神科医の高木(オダギリジョー)の元でカウンセリング治療を始めるのだが……。 (シネマトゥデイ
Yahoo!映画 http://moviessearch.yahoo.co.jp/detail/tydt/id326311/ より)

 傑作『CURE』で扱われた〈何者かの力で殺人に駆り立てられる〉というモチーフと『LOFT』で見事に展開されていた(「死」ではなく)〈屍体〉のモチーフが、この映画において交錯している。前者はいわば〈感染する殺人衝動〉とでも呼ぶべきもので、古くは吸血鬼モノの小説や映画(ブラム・ストーカー作『吸血鬼ドラキュラ』、そしてF.W.ムルナウ監督『吸血鬼ノスフェラトゥ』(1922)やヴェルナー・ヘルツォーク監督『ノスフェラトゥ』(1978))に見られる。そこに「忘れられた女」という文学的原型が導入される。これは「だって、貴方、人に知らないで活きているのは、活きているのじゃないんですもの」という泉鏡花の戯曲『海神別荘』のなかの海に召された美女の科白や、マリー・ローランサンの詩「鎮静剤」(Le calmant) の Plus que morte Oubliée(死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です――堀口大學訳)という最後の一節に典型的に見られるものだ。この忘れられた女が本作では赤いワンピースの葉月里緒奈ということなのだが、どうもそんな女の哀れさが、彼女の演技には感じられない。残念だ。筋立てもやや平板である。そのために本作は、『LOFT』のような死んだ女の哀しみを伝える荘重な悲劇とはなりえず、『CURE』がそうであったように不可解さと寝覚めの悪さが強烈な魅力となる映画というわけでもなく、かといっていわゆるホラー映画が狙うような生理的な恐怖感を惹き起こすわけでもなく、なんとも半端な映画になってしまった。とはいえ、例によって、「黒沢清的」と形容されることで、すでにいささかマニエリスムになりつつある(にもかかわらず/がゆえに)魅力的な形象たち、廃墟、水、曇った窓、無機質な物体の反復(本作では、精神病院、海水、団地の窓、無数の白いポリタンク、といった形で現れる)はあいかわらず健在で、それらの与える映像的快楽は、この映画を駄作とまで貶める蛮勇を私をしてためらわせるに充分なものである。中村中*1の歌うテーマ曲もすばらしい。
 上映終了後にティーチ・インがあって黒沢監督は、幽霊がどのように消えていくかに工夫を凝らしたかった、といったことを語っている。この映画の幽霊の消え方はすごい。蒸発するようにどこかえ消えていくのもなく、あるいは誰かが幽霊に襲われて絶叫したところでシーン転換するのでもなく、幽霊は玄関から帰ってゆくのだ! あたかも訪ねて来た客が帰宅するように! これは衝撃的だ。

「叫」公式サイト http://sakebi.jp/index.html

※画像は「叫」のチラシ。

*1:*読者よ、彼女の作詞作曲した奇跡的な名曲「友達の詩」(2006年。自身でも歌い、岩崎宏美にも提供している)を聴いたことがあるか?