キム・ギドク『絶対の愛』(2006年)

clair-de-lune2007-03-15

 渋谷ユーロスペースにて、キム・ギドク監督の映画を二作みる。同行してくださったのは畏友T氏。
 一本目は新作『絶対の愛』(2006年、韓国・日本、98分。原題「時間 Time」)。
 恋人に飽きられることを恐れた女が美容整形手術を受ける、そして彼女は別人としてマスクとサングラス姿で恋人の前に姿を現す・・・、というストーリー。
 「生まれ変わっても私を見つけて」という類の常套句が表しているような soul mate あるいは転生のテーマ、そしてわれわれは或る人を同定するときどれほど顔に頼っているのかというアイデンティティのテーマ(人は見た目が10割!)などを見出すことができるだろう。そしてそれらは、「漂流」と「不在」というすぐれてキム・ギドク的な物語を奏でる装置として、それなりに有効に機能している。それは美容整形産業が異常に隆盛を示している(と伝えられる)韓国社会への批判とも、一人の相手をずっと愛し続けること・そして相手も自分をずっと愛し続けることを範とする恋愛の(じつは熟慮のもとにはいささかも自明性を見出せない)規範への批判とも、あるいはそのような恋愛規範とも結びつく〈自分探し〉という不毛な症候への揶揄とも読まれうる、かなりの社会性を持った物語でもある。キム・ギドクは言葉の強い意味における社会性と倫理性を備えた作家であることを私たちは知っている。だが、この映画は、その社会意識・倫理意識を、かなり直接的に、愚直ともいいうるほど直接的に表出している。これは本作の欠点だと私は思う。作中の人物たちの行動は、キム・ギドク作品の通例のごとく、きわめて異常である。だが、了解不可能ではない。ここが認めがたいのだ。『悪い男』や『うつせみ』に現れた、了解を絶する挙におよぶ男と女。かれらの行動の不可解さこそ、キム・ギドク映画に、異化された社会性・倫理性とも言うべきものを与えていたのだ。本作の人物たちの挙動の、極端ではあるがそれなりに筋道が通った言わば屈折のなさは致命的である。
 そしてまた、キム・ギドクのフィルムの精髄は、「漂流と不在」の物語を、形象的・物体的な反復脅迫めいた執着の形をとるときにこそ現れる。彼のこれまでの作品はどれか一作だけみれば他の全作品がおよそわかると極論することもできるような様式に固執してきた。具体的には、水、水上建築、魚、曳行といった形象、身体の損壊、女性への虐待といった行為へのオプセッシオンである。だが本作で、このような執着を、キム・ギドクはかなりの程度投げうっている。むろん女性の顔にメスがはいる整形手術のシーン、とくにその接写ショットなどは、あいかわらず傷つく(女性の)身体という形象の描写ではあるが、これは、女性が自分の意思で、しかも麻酔をかけられて、或る目的のために、自らの身体に課した傷害なのであり、かつてのキム・ギドク映画のような、不条理に、一方的に傷つけられる女性(『悪い男』)とか、無為に切り刻まれる身体(『魚と寝る女』)とは大きく異なる。そしてキム・ギドクの女性虐待はサド・マゾヒズムの反転のなかで加害=救済という等式を弁証法的に成立させるが(『悪い男』がその典型)、それは女性においては純粋な受苦 passion の形をとらねばならず(『弓』で矢を撃たれる少女)、自分の意思で整形手術を受けるといった能動的契機の介在は、この弁証法を機能不全に陥らせるように思えてならない。
 この新作にみられる変化をわれわれは言祝ぐべきであろうか。変化がつねに創造的であるとはかぎらない。むしろ耐えざる反復のなかに、つまり楽器や編曲をつぎつぎ変えながらも同じ主題を奏でつづけるような行為のなかにこそ、映画の喜びが存在する場合もあるのではなかろうか。
 整形手術を受けた女性のように、従来のキム・ギドク作品とは大いに異質な顔を持つことになったこの新作を私は労作だとは認めつつ、それは整形によって獲得された彼女の顔を美しいとは思いつつその変化を必ずしも無邪気に喜べないように、手放しでは祝福できないでいる。
○公式サイト http://zettai-love.com/
(画像は『絶対の愛』壁紙。公式サイトより)