キム・ギドク『ワイルドアニマル』(1997年)

 ユーロスペースではキム・ギドクの特集上映(「スーパー・ギドク・マンダラ」)が行われているので、『絶対の愛』に続けて日本初公開の『ワイルド・アニマル』(1997年、韓国、103分。原題「野生動物保護地域」)を観る。会場にマスクとサングラスをつけた男性客が来ていたが(!)、あれは『絶対の愛』を意識したコスプレか、単なる花粉症か。
 さて、本作はキム・ギドクの第二作目にあたる映画である。ストーリーその他を紹介する前にまず書いておこう。本作はほとんど奇跡のような傑作である! 
 舞台となるのはパリ。かつてキム・ギドクも絵の修行のためこの地に住んでいたことがある。パリで出会った二人の男。韓国人チョンヘは無頼漢の三流画家で、他人のアトリエで盗んだ絵をモンマルトルの丘で売りさばいて糊口をしのでいる。北朝鮮出身のホンサンは本国の軍を脱走しフランスの傭兵となるためパリに出てきた屈強な男である。ホンサンはパリにくる旅の車内で韓国人の女性ローラと出会っている。彼女はパリの〈のぞき部屋〉(peep show)のストリッパーとして働いている。ホンサンはやがてこののぞき部屋の常連客として夜毎彼女のショーを見に行くことになる。チョンヘとホンサンは偶然知り合い、北朝鮮の兵士として鍛え上げられたチョンヘの腕力を生かした大道芸をモンマルトルで演じて小銭稼ぎをするようになる。ホンサンはそこで、裸体に白塗りをして活人彫刻のようなパフォーマンスを行っていた女性コリーヌとである。コリーヌはハンガリーから出てきた不法滞在者で、男の家に寄宿しているが、嫉妬深い男から暴力をうけている。或る日いつものように大道芸をみせていたホンサンとチョンヘをマフィアがスカウトする。二人は殺し屋稼業に手を染めることになり、チョンヘは(ホンサンが思いを寄せていた)ローラの恋人(麻薬の売人)を殺害する。そしてチョンヘはホンサンを裏切り、マフィア組織は内紛で壊滅、やがてチョンヘとホンサンは和解するも、二人をマフィアの残党が始末しにやってくる・・・。
 ストーリーはフィルム・ノワールの定石のようで、香港映画や『ゴッド・ファーザー』のパロディを容易にみとめることができる。そんなことよりも、本作では、早くもデビュー後二作目にして、キム・ギドク的なオブジェが全篇に溢れ、この作家の美学的形象を方向付けていることに注目したい。たとえば〈水上建築〉という後に執拗なまでに反復される形象(『魚と寝る女』『弓』『春夏秋冬そして春』)は、本作ではチョンヘのアトリエ舟としてあらわれる。地に根を張らない水上建築は漂流と不在の形象だ。そして痛々しい〈引き綱〉あるいは〈曳行〉のテーマ。これは本作で、きわめて印象的である。チョンヘがホンサンを裏切って河に突き落とすとき、ホンサンの手には手錠がはめられている。やがて、お前のためなら死んでもいいと裏切りを甘んじて受け容れるホンサンにチョンヘは詫びて彼を川から引き上げる。このとき手錠のチェーンによってホンサンの体はささえられるが、チョンヘが彼を助けようとするとき、手錠は命綱であり、かつホンサンの手首をちぎれんばかりに締め付ける凶器ともなる。それは後の『弓』(2005年)において、老人の頸に巻きついたロープが少女の乗る舟によって曳航される、つまり少女と老人の愛情の糸でありながら老人を縊死させる凶器ともなっていることと相同的である。身体を締め付け死をたぐりよせる綱、そして二人を結びつける絆となる綱。物語の後半で、チョンヘとホンサンがまたも手錠で二人むすびつけられたまま海へ投げ込まれたとき、チョンヘの手首を切って(!)手錠の縛めを解くシーンがあるが、ここでも大きな傷を負うことで活路が見出されること、つまり「加害=救済」というすぐれてキム・ギドク的な枠組みを作り出すための装置として、二人を繋ぐ縄(手錠のチェーン)というオブジェが現れることになる。
 〈女性にたいする執拗な虐待〉のモティーフは本作でも顕著である。恋人からドメスティック・ヴァイオレンス的な虐待をうけるコリーヌ。ここで〈魚〉というオブジェ(『魚と寝る女』、『弓』の釣り船)が現れる。彼女は凍った魚(!)で男に殴られる。しかもそれは冷凍庫のなかのサバである。なんという綺想をキム・ギドクは思いつくのだろう。キム・ギドクの魚は水のなかを自由に泳ぐ魚ではない。それは『魚と寝る女』で釣り上げられたのち皮を剥がれたまま湖に戻される魚だったり、本作の冷凍された魚だったりという具合だ。
 女性の虐待といえば、ローラもまた痛ましい生贄となる。彼女は恋人をチョンヘに殺される。その悲しみのなかでも、のぞき小屋の舞台にたたなければならない。そして、舞台の上で裸体をさらしたまま泣き崩れる彼女の姿をマジックミラー越しに見るホンサンは、それまで何度もこの小屋に通いながら、ただ彼女の裸身を見るだけで決して行うことのなかった自慰行為にふける。傷ついた女にしか欲情しないホンサン。そして自らの悲しみの姿が自慰行為の材料として消費されてしまうローラ。
 しかしこうして傷つけられた女たちが、最後には救済されるという途を、キム・ギドクは必ず用意している。最後まで女が虐待されるだけで終わる映画を彼は撮らないのだ。それは、女たちの「サディズム」という形をとることもあれば、「マゾヒズム」という形をとることもある。前者は虐待にたいするストレートな反定立、いわば復讐であるわけでが、より洗練された形としては後者をとる。傷つけた男を傷つけ返すのがサディズムだとすれば、傷つけられることがそのまま救済されることになるというのが「マゾヒズム」である。両者はキム・ギドクの映画のなかで、複合的に現れ、単純に二分できるものではないが、本作はサディズムのほうに傾きをもった結末を、『魚と寝る女』や『うつせみ』などはマゾヒズムのほうにどちらかといえば傾いた結末を、つまり女たちの〈活路〉を用意しているといえるだろう。キム・ギドクの言葉を引用しておこう。『魚と寝る女』のなかのマゾヒスティックな救済を念頭においた発言である。

愛したことがあるかって? 私の職業は人々を観察することであり、より本質的には人を愛することだ。君たちこそ愛が何なのか知っているのか? 君たちの愛は、社会的、道徳的に充分に容認される安全の範疇内にあるのだろう。それがすべてだと、まさかそれがすべてだと思っていないだろう。愛したことがある人なら知っている。なぜ「彼女」が自分の子宮に釣り針を入れて引っ張るしかなかったのか。
(「『絶対の愛』+『スーパー・ギドク・マンダラ』パンフレット」より)

○スーパー・ギドク・マンダラ http://www.eurospace.co.jp/detail.html?no=75

(画像は『ワイルド・アニマル』韓国版チラシ)