新宿・渋谷の死体遺棄事件

 横浜まで出たので書店・駅の売店をまわり、週刊誌の類を山のように買い込む。渋谷・新宿の死体損壊遺棄事件(主婦・三橋歌織容疑者が夫を殺害・遺棄したとされる事件)関係の記事を蒐集するため。帰宅して読みふけるが、残念ながら、連日新聞報道されていることに加えて別段の新しい情報はない。
 この事件について、率直な感想を手短に書いておこう。
 三橋歌織容疑者は、夫から夫婦間暴力(ドメスティック・ヴァイオレンス;DV)を受け、鼻の骨を折るような重傷を負っていたという。これは三橋容疑者の供述に加え、暴行を受けた当時、彼女が警察に相談し、また、医療機関による手当、DV被害者の救済施設による保護を受けていたことから裏がとれている事実である。だとすれば、やはり私は三橋歌織容疑者への同情を禁じえない。理屈抜きに言うならば、最愛の女性に自ら怪我を負わせるような男は殺されても仕方ない。これは私の(そうだ、十九世紀西欧に生を受けることを望んだにも関わらず、二十世紀のわが国になぜか生まれてしまった、遅れてきたロマン主義者である私の)信念であって、法律や論理の問題ではない。まあ、こう言い切ってしまってもいいだろうが、理屈も少し書いておくならば、妻や恋人に暴力を働くというのは、おそらく殺害された夫や世のDV加害者が別段に野蛮ないし暴力的だというより、現状のような男女の力関係のもとで婚姻関係やそれに準ずる排他的一対一の恋人関係を維持しようとする際に、なかば必然的に生じる構造的(社会的)帰結なのだ。三橋歌織容疑者も彼女の夫も、その犠牲者である。われわれは、かかる社会的制度における男女関係の不幸を、すでに嫌というほど知っているはずだが、自らそれに盲いている。この事件は、むろん比類なき参事というほかない。しかし、このような悲劇に何度か直面することなしに、われわれは、この不幸へと刮目することはできないのである。
 以下はいささか不謹慎な雑感。三橋歌織容疑者は、報道されているところでは、いわゆる「セレブ」指向が強く、自分の経歴から夫の職業まで、例えば白百合女子大を出て航空機の客室乗務員を目指していたとか(いずれも女性にとっての優位の階級的記号だ)、司法職志望の男(殺害された夫)と結婚を望んだとか、すべて彼女の「セレブ」願望を満たすためだったといわれている。これも後からみればそういう見方もできるという程度の話で、そこまで彼女が意識的に望んでいたとも必ずしも思えないが、そうだとしても、この分かりやすい通俗的な上昇志向というか、世俗的価値観の内面化というのも、女性のふるまいとして、なかなかいじらしいではないか。夫を殺害した凶器がワインの瓶だというのも、どこかで事件が発覚したときのことを考えていたのかなと、つまり、一升瓶でもレンガや工具でもなく、通俗的なセレブリティの記号であるワインのボトルだというのも、一種の(なかば無意識の)自己演出なのかなと思うと、これも何ともいじらしいというか、言いかえれば、いたたまれない気分になる。それは人間の欲望=願望することが、実はさほどユニークではありえず、或る類型に沿ってしか欲望=願望できないという悲しさなのだが、それにしても、蒐集した雑誌に山のように掲載されている三橋歌織容疑者の美しい(殺人容疑者であろうとなかろうと美しいものは美しい)写真、とくに逮捕後の護送車の中でうつむき加減に写っているやつれた彼女の写真をみると、なんともやりきれない思いがする。他人との階級的差異の記号を探求した果てに、このような惨劇が起こるのか……。しかし、事態はそんなことではないのかもしれない。人は言う。なぜ夫を殺す前に、離婚するなり、夫を傷害罪で告訴するなりしなかったのか、と。だが、私の女友達の何人かは言う、プライドが傷つけられたのだ、と。最も信頼し愛していたはずの夫に自分の携帯メールをチェックされたり、怪我をするほど殴られたりしたら、プライドが許さなかったのだ、ただそれだけだ、と。