こうの史代『夕凪の街 桜の国』、あるいは10年目の被爆

 こうのさんの本、今日読んだ2冊目はこの本。

夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)

夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)

 「夕凪の街」「桜の国(1&2)」を収録。「夕凪の街」を読む。被爆から10年後の広島が舞台。ヒロインはやはり上述の類型に近いような天真爛漫な女性。だが、こちらはずっと深刻な話だ。被爆体験や原爆による死というものは、あの1945年8月6日の一瞬に起こった出来事のようにとらえがちで、実際その瞬間には、まさに「表象不可能」と呼ばれるような事態が「経験されている」*1わけだが、そのような極端な出来事は、それでもまだ何らかのかたちで表象される可能性を持っている(表象されることは救済されることだと述べたのはジャン=ミシェル・フロドンであった)。だが、投下後、じわじわと長きにわたって(現在にいたるまで)人々の生を侵し続けた原爆の作用(それは放射線の物理的作用のみならず被爆者を社会的にスティグマタイズしてゆく作用をも含む)は、文学・漫画・映画などにとらえられる機会が比較的すくない。それは作品化するときに(語弊のある言い方だが)インパクトが少ない、つまり物語映えがしない、画にならないからだ。この漫画が被爆から10年たったころ、ヒロインに日常に出来した悲劇を、冷静に(作者は広島出身だが彼女は完全に戦後世代、また親族者はいないという)、しかし、きわめて印象的に描き切ったことは漫画史上の、また、原爆文学史上の奇跡的な実りといってよい。この作品が大きな注目を集め*2手塚治虫文化賞新生賞・文化庁メディア芸術祭賞を受賞したことも充分にうなづける。
 わが畏友にNM氏という人がいて、「核のイメージ」の研究を一貫しておこなっている*3。彼女にこの作品のことを訊いてみたい気がする。

 さきに言及したフロドンの言葉は以下の文献を参照。いま手許にある本が発見できないので、上の引用はかならずしも正確でない。

映画と国民国家

映画と国民国家

 2002年刊。

*1:「経験する」という出来事を仏語では「生きる」vivre という動詞を他動詞として用いて、「**を生きる」という形で表すことがある。この動詞の受動を表す過去分詞 vecu に冠詞をつけて le vecu とすれば、「生きられたこと」の意味から「経験」となる。ところで被爆ホロコーストのような出来事は生者によっては経験されえない。「生きられる」ことはないのだ。むろん「死ぬ mourir」という動詞に他動詞「**を死ぬ」という用法があろうはずもない。原爆やホロコーストの表象不可能性というのはこのような議論だと一応私は理解している。

*2:本書は初版2004年10月からわずか2箇月で3刷が出ている。またamazon.co.jpのレヴュー数は、2007/01/17現在で177件に達している。

*3:このブログでも昨年11月に言及した