ヴァージニア・ウルフ『病むことについて』

 ウルフのエッセイ集。

病むことについて (大人の本棚)

病むことについて (大人の本棚)

 表題作(初出:『ニュー・クラテリオン』1926年1月号)から引用しよう。

 病気がいかにありふれたものであるか、病気のもたらす精神的変化がいかに大きいか、健康の光の衰えとともに姿をあらわす未発見の国々がいかに驚くばかりか、インフルエンザにちょっとかかっただけで、なんという魂の荒涼たる広がりと砂漠が目に映るか、熱が少し上がると、なんという絶壁や色鮮やかな花々の点在する芝地が見えてくるか、病気にかかると、私たちの内部でなんと古びた、がんこな樫の木が根こそぎになるか、歯医者で歯を一本抜かれ、ひじ掛け椅子に座ったまま浮かび上がり、「口をゆすいで下さい――ゆすいで」という医者の言葉を、天国の床から身をかがめて迎えてくれる神の歓迎の言葉と取りちがえるとき、いかに私たちが死の淵に沈み、頭上にかぶさる水で息絶える思いをし、麻酔から覚めて天使やハープ奏者たちの面前にいるとばかり思い込んでいるか――こうしたことを考えるとき――しばしば考えざるをえないのだが――病気が、愛や戦いや嫉妬とともに、文学の主要テーマの一つにならないのは、たしかに奇妙なことに思われる。小説はインフルエンザに専念できたのではないか、叙事詩チフスに、頌は肺炎に、叙情詩は歯痛に専念できたのではないか、と思われただろう。

〔…〕病気はしばしば愛の仮面をつけ、愛と同様の奇妙な策略を使う〔…〕

 植物が慰めをもたらすのは、それらが無関心だからだ。

 私たちが目を向けるのは詩人たちなのだ。病気のとき、私たちは散文が強いる長期戦には気が進まない。〔…〕私たちは詩人から花をもぎとる。詩を一行か二行折り取り、心の奥底で開花させるのだ。

 病んでいるとき、言葉は神秘的な性質をそなえているように思われる。〔…〕健康なときは、意味がおとに入り込んでくる。知性が感覚を支配するのだ。だが、病気のときは、警察官が非番なので、私たちはマラルメとかダンの不可解な詩、ラテン語ギリシア語の成句にもぐり込む。すると、言葉は香りを放ち、風味をしたたらせるのだ。

〔…〕サー・ジョン・レズリーはけっして忘れられないだろう、葬儀の日、階下に駆け降りていったとき、棺が出ていくのを立って見送っている夫人の美しさを。また、彼が戻ってきたとき、カーテン――重い、ヴィクトリア中期の、たぶん絹織ビロード地のもの――が、もだえ苦しむ夫人の手で掴まれて、しわくちゃになっていたこともけっして忘れられないだろう。