「クローデル! 川口のジャンヌ・ダルク」

 最近知遇を得た桜井真樹子さん(作曲家・ヴォーカリスト(天台声明)・パフォーマー白拍子))からご案内いただいた舞台を観に、川口に行く。

  「クローデル!川口のジャンヌ・ダルク
 日時:12月1日(土)17:00開演
   2日(日)19:00開演
   (開場の開演の30分前)
 場所:KAWAGUCHI ART FACTORY
http://www.art-kouba.com/chizu.html
 埼玉高速鉄道東京メトロ南北線直通)「川口元郷」駅より徒歩
5分、JR京浜東北線「川口」駅より徒歩20分
 TEL:048-222-2369
 学生無料
チケット前売り:1,000円、当日1,300円
 作・演出:今井尋也
 美術:村信保
 音楽:河崎純
 出演:桜井真樹子、リチャード・エマート
    五十嵐貢、エイキミア、可児明日香、神山沙織、清原舞子、高
山昌三、平瀬結以、松崎淳、吉松章
 お問い合わせ:モルタル劇場
 TEL&FAX:045-716-0899 megalo@h7.dion.ne.jp
http://www.megalo.bizz

 私が観たのは初日。会場に到着して驚いたが、KAWAGUCHI ART FACTORY は文字通りの factory で、鋳造工場の跡地であった。演劇のためのスペースとして貸し出しているらしい。タイトルはチラシによると「クローデル! 火刑台上の川口のジャンヌ・ダルク」。

 * * *

 女が巨大な十字架を逆さに抱え、先端を地面に引きずりながら川口の川辺を歩いてゆく。ひとりの僧侶と出会って彼女は言う、――私の家には一冊の書物が先祖代々伝わっています。それは謎の文字で書かれていて、私には読めません。どうか、この書物の内容を教えてください――。僧侶ドミニクは、彼女の求めに応じ、羊皮紙に革装の古い書物を読み進む。そこに書かれたていたのは、英仏百年戦争でフランスを救い、異端者として火刑に処されたオルレアンの処女、ジャンヌ・ダルクの物語であった。
 ドミニクの読む物語。ジャンヌの裁判の顛末。ジャンヌを裁くのは羊、蛇、ロバなどの群集=動物たち。裁判長は豚である。川口の女*1はジャンヌの役を無理やりあてがわれ、手を鉄鎖で縛められる。女の叫び――「私はジャンヌではない!」。熱狂した群集の動物的情動が被告人ジャンヌの裁判を進める。
 劇の全体は枠物語の構造をとり、女の持つ書物に書かれたストーリーを役者たちが演じる様が、外枠の物語によって演ぜられる。つまり、〈書物のなかの物語〉(劇中劇:ジャンヌの物語)と〈書物の外の物語〉(川口の女の物語)が対照をなす構造になっている。劇中劇の群集裁判が終わると、書物のなかの物語は途絶してしまう。羊皮紙は白紙になる。物語=文字は世界に散らばってしまった。役者たちは物語=文字を探す。ジャンヌの物語は、フランス全土のカラスの羽が羊皮紙に刻んだ音。カラスは黒い鳥。そして、この劇の作者はポール・クローデル。黒い鳥、クロイトリ、クローデル*2。物語はクローデルに訊ねればよい。だが、すでにクローデルは死んでいる。それならば、物語=文字はクローデルの故郷に捜し求めるしかない。劇中劇の俳優たちは物語=文字をもとめて、フランスへ向かう。
 クローデル家の食卓。父クローデルと家族たち。そのなかには若きポール・クローデルと姉で彫刻家のカミーユ・クローデルの姿がある。父に認められない姉弟は、生地であるフランス北東の小村ヴィルヌーヴ=シュル=フェールに向かう。ここは二人の原風景なのだ。なかば近親相姦的な愛情を確かめ合う姉弟クローデルの物語を探しにきた役者たちにより、ウルトビーズ(天使)*3の歌が歌われる。かれらはここでクローデルの草稿をみつけ、物語=文字が手に戻ったことを歓喜し、書物の物語がふたたび展開する。
 ジャンヌの物語。戦に勝利したジャンヌは王とともに凱旋する。十字架は馬になり、王がまたがる。
 場面は転じてカミーユ・クローデルの入院する精神病院。ここにもまた、ジャンヌの物語の役者たちが乱入し、ドミニクと川口の女を、ポールとカミーユに仕立ててしまう。カミーユの物語が強引に展開されてしまうのだ。狂乱のカミーユは自らをジャンヌ・ダルクであると幻視する。幻視のなかで裁かれるジャンヌ。「私はジャンヌではない」とカミーユ。やがて、「私はジャンヌだ!」。カミーユの幻視が書物の内と外の物語を交錯させる。
 ふたたびジャンヌの物語。オルレアンの乙女は「異端者! 魔女! 売女!」と罵られ、自らが悪魔の声をきいたことを認める署名をしてしまう。ジャンヌは火刑に処される。「焔は私の花嫁衣裳、私をとらえる鎖は婚約指環」。ジャンヌは舞い落ちる紙吹雪の白い焔に焼かれ、虚空へと旅立つ。

 * * *

 原案はポール・クローデル(Paul Claudel)台本、アルチュール・オネゲル(Arthur Honnegger)作曲の劇的オラトリオ『火刑台上のジャンヌ・ダルクJeanne d'Arc au bucher)』(1938年初演)*4クローデル作のオラトリオは史上数多あるジャンヌものの作品のなかで白眉といってよいが、今井尋也の演出になる本作は、枠構造を採り、ジャンヌ、クローデル姉弟、川口の謎の女という三系列の物語を交錯させることで、重層的なふくらみをもった新たな傑作たりえている。
 冒頭、川口の女が引きずる十字架は上下が転倒している。天へと向かうべきその先端は下方の地獄を指し示している。神の声を聞いた女が異端者として処刑され、神の正当な裁きが下されるべき審問が獣たちの衆愚的熱狂に支配されることを予告しているのだ。そして地面に軌跡を残すその先端は羊皮紙に文字を刻むペン先のようでもある。ジャンヌが大地に印す言葉は、やがて白紙のページが現れ途絶してしまう物語に、新たに加えられた結末であったか――。
 600年前のフランスと現代(?)の川口は焔によって共鳴する。川口は鋳造工業で栄えたキューポラ(溶銑炉)の町である。キューポラの焔は鉄塊を溶融し、ある形をそなえた物体を誕生させる。焔は鉄に命を与えるのだ。ジャンヌの命を奪った焔は彼女を焼き尽くすが、同時に彼女に新たな生命を与え、現代へと転生させる。ジャンヌは灰から甦り、永遠に生きつづけるフェニックスとなって飛翔する。この舞台で彼女を焼いた焔が何も記されていない白い紙として表現されていることは、この衆愚裁判の実態が、言葉にとらえられず、裁く者の顔も見えない不気味な情念であることを示すかのようだ。
 川口の女、オルレアンの女、精神病院の女――。 三人の女の物語の複雑な交錯は、周到な仕掛けがいくつもほどこされ、巧みに実現されている。カミーユの物語への接続は、この作品のなかでもとくに優れたところだ。劇中劇を演じる役者たちが失われた文字=物語を探すという場面は、クローデルの原テクストにはない。「文字は世界に散らばってしまった」「作者は死んでいる」など、どことなく20世紀後半の文学論を思わせる科白がちりばめられた挿話だが、これがカミーユの物語への導入になっている。病院に収容されているカミーユ。精神病院とは、社会(俗世)から隔絶されたアジールである。それは聖なる場所であり、敬虔の空間たる聖堂に肉薄している*5。ゆえにカミーユの存在は、その場所的身分において「聖女」であるが、社会からは「狂女」の烙印を与えられることで、そこに収容されている。狂女として裁かれた聖女ジャンヌを幻視するのは、社会からは狂女とみなされながらも芸術創造の神に仕えた聖女カミーユである。聖女を幻視するものは聖女なのか、狂女なのか。そもそもカミーユは狂女なのか。聖女、狂女――いずれにせよ、世俗的秩序からの或る過剰性を身に纏った女を演じるのに、主演の桜井真樹子以上にふさわしい役者を私は知らない。ふだんの彼女のライフ・ワークは声明[しょうみょう]や白拍子など日本の古来の宗教的祭儀に起源をもつ芸能を現代に甦らせることであり、彼女は巫女的な資質をもった女性であるように思われる。この舞台で桜井は、異国の巫女の姿を600年後の川口に自らの身体において現前させ、自身の魂と共鳴させた。この日彼女の演じたジャンヌの姿は、ほんとうに見事としか言いようがない。民衆にとらえられ鉄鎖をはめられるジャンヌの痛ましさ。その痛ましい少女の姿が、天に召されるとき、「虚空への凱旋」とでも呼ぶべき勝利を遂げる力強い女へと変貌する。一方の極から他方の極へと反転する女の姿を桜井は完璧に演じきっている。
 僧侶ドミニクを演じたリチャード・エマートも素晴らしい役者であった。彼は米国出身の喜多流能楽師という驚くべき人物で、本作でも科白に能の節をつけて語る。これがドミニクの悲痛な語りになんともふさわしい。一方で、カミーユの収容されている精神病院の場面では、僧侶ドミニクを演じていたはずの彼が、押しかけてきた役者たちからいきなり「ポールをやれ。できればフランス語で」と迫られ、「今、ドミニクをやっているんですが」と応じるもききいれられず、フランス語はできないが日本語よりはさまになるということで、なぜか英語で妹に語りかけるフランスの詩人という珍妙な役を演じた。
 本公演の主催は「モルタル劇場」。本作の美術を手がけている村信保が中心となり、上述の今井尋也、桜井真樹子、リチャード・エマートが参加して創設した劇団で、川口を拠点に活動している。私は今回がこの劇団の作品をはじめて体験する機会となったが、今後の公演にも大いに期待をいだかせる立派な舞台であった。

*1:公演チラシによれば川口のソープランド嬢という設定らしいが、舞台をみるかぎりでは、どのような女なのか明らかでない。

*2:おそらくこれは、クローデルに『朝日の中の黒い鳥(L'Oiseau noir dans le Soleil levant)』(1927)という著作(日本文化論)があることも踏まえているのだろう。

*3:ウルトビーズ(Heurtebize)。ジャン・コクトーの詩にあらわれるウルトビーズは三島由紀夫が『ラディゲの死』で引用したこともあり有名である。「天使ウルトビーズの死は/天使の死だった、ウルトビーズの/死は天使の死だった、/天使ウルトビーズの或る死/両替の或る神秘、/トランプに足りない一枚のポイント/葡萄の蔓がからみつく或る犯罪、/月の葡萄の株、咬みつく白鳥の或る歌。/昨日まで名を知らなかった他の/天使が代わりになる、/せっぱつまって、それがセヂェスト」(「天使ウルトビーズ」堀口大學訳)

*4:録音はいくつかあるが、私がきいたものは、セルジュ・ボード指揮、プラハフィルハーモニー管弦楽団演奏のLP。CDも出ているようだ。ネリー・ボルジョー(Nelly Borgeaud)のジャンヌ役が奇跡的に素晴らしい。

*5:ポルトガル映画作家マニエル・デ・オリヴェイラの傑作『神曲』は精神病院の患者たちが奇妙な芝居を演じる映画であった。原題は「神聖なる喜劇 (Divina Comedia)」である。これは、ダンテの『神曲 (Divina Comedia)』を念頭に置いたタイトルであった。ストーリーそのものはダンテの神曲とほとんど関係がない。