佐藤優『国家と神とマルクス』

国家と神とマルクス―「自由主義的保守主義者」かく語りき

国家と神とマルクス―「自由主義的保守主義者」かく語りき

 話題の休職外務事務官・佐藤優さん。じつは彼の本を手に取るのは本書が初めてだ。いくつか、気になる箇所を引用してみる(なお、一部インタヴューの採録として構成されている箇所がある)。

 私が国家とか国体という言葉を意図的に使うのは、そのほうが暴力性やおどろおどろしさがでるからです。国体を「国柄」とか、国家を「クニ」とかで表現すると、何か優しくて温かいもののように見えるから危ないと思うのです。国家は戦争し、徴兵し、死刑にし、無理やり徴税するといった類の暴力性が第一義的性格だと思う。(204頁)
〔…〕国家の暴力性に対して、効果的に対抗できるのは人間のコミュニケーション的行為、それも発話主体の性格について相互に認識できるような小規模のコミュニケーション空間だと思う。顔が見える範囲が限度だと思う。それを超えると、対抗運動にも国家に類似した暴力性が出てくると思います。(206頁)

 現代の国家は生権力 bio-pouvoir、つまり「生かす権力」による政治を行う、などとフーコーの口真似をする輩は多く、たしかに事実そのような面もあるだろうが、しかしいざとなれば剥きだしの暴力を行使し、殺す権力を行使するのが国家なのである。そしてそのような暴力に対抗しようとする組織も規模が大きくなると、国家のような暴力装置の様相を呈する。要するに内ゲバを行うようになる。

〔…〕マルクスは人間の表象能力を重視した。人間には表象能力があるため、そこから本来、論理関係のないものに連関をつけるような操作が可能になる。占星術錬金術陰陽道などはその類なのである。政治の世界においても、自らの利益を代表していない者を代表として選んでしまうのは人間に表象能力があるからだ。民主主義の落とし穴がここにある。(254頁)

 表象も代表も欧語では representation で同じ言葉である。まあ、この佐藤さんの説明はもっともらしすぎて、少々うさんくさいが(笑)。