コルバン『空と海』

空と海

空と海

 アラン・コルバン(本ブログ今年1月の京都でアラン・コルバンに会う参照)の邦訳新刊(2007年2月)を読む。原書は Alain Corbin, Le ciel et la mer, Paris, Bayard, 2005.
 コルバンは前著『風景と人間』(原書2001年)で、十八世紀末から西欧では気象にたいする人間の感性が鋭くなったことを指摘した。このことを典型的に読み取れるのはルソー『孤独な散歩者の夢想』(1780年)にみられる〈魂の気圧計〉である。すなわち、精神状態と気候の変化の相即を平行して観察しようとしたのだ。
 この〈魂の気圧計〉の消息をたどる、つまり気候と感性の歴史を書くためにはどのような方策がありうるか?本書は、四つの作業を試みる。
(1)天候への関心のありかたと、天候を記録する方法の歴史
(2)天候の感じかた、評価のしかたの歴史
(3)上記(つまり表象体系と評価様式の体系)から導き出される行動・実践の歴史
(4)天候への関心によって決定づけられる諸政策の歴史

 まずは空だ。
 たとえば、宗教は空をどう読み解いたか? 王政復古時代のフランスでは、空に多くの奇跡が出現した。ポワトゥー地方の空に、何千人もの人が見ている前で光輝く十字架が出現したのだ。十九世紀半ばになっても、聖母マリアが上空に現れたとする記録が無数にのこっている。
 あるいは、十九世紀に気球が発明されると、空は航海する場所となる。「空の大洋」の出現である。アレクサンダー・V・フンボルトは、われわれはその大洋の「底辺に住んでいる」と語る。空はかつて占星術アストロロジー)の対象、そして天文学(アストロノミー)の探求するところであったが、「空の大洋」は物理化学的調査の対象となる。あたかも海洋が水質試験や微生物の存在調査などの実験的対象となったように、「空の大洋」も雷雲や空中電気を物理化学的に計測調査する対象となるのだ。
 また、われわれは天候と感情の関係(われわれが曇天に自らの憂鬱を投影し、晴天は人を快活にする等)を自明なものととらえているが、そのような観念連合もまた、或る特定の時代、具体的には十九世紀頃のテクストに見出されるようになった歴史的なものにほかならない。例えば歴史家ミシュレ(ちなみに、コルバンの本書はミシュレの著作、たとえば『海』といった自然史系列の著作へのオマージュである)の妻アテナイスは、食事以上に天候の影響を受けた。1862年10月8日の日記でミシュレは述べている。「今日は東風のおかげで、彼女が活発で軽快になった」。あるいは別の日の日記。「電気を帯びたような、恋を刺激するこの雷雨がまさに愛の営みを妨げる」。「雷雨が迫っていて、ひどくけだるく官能的な天気」。ここに天候と官能性が結びつく。

 そして海。
 荒ぶる海が「崇高」の美的規範を体言する巨大で恐ろしい自然の典型として、十八世紀後半から十九世紀にかかて幾度となく画題になっていることは周知のとおりである。たとえばジョゼフ・ヴェルネの《嵐》。
 このあらぶる海は、あるとき官能の海へとかわる。難破する船、女性の犠牲者がとる姿勢のエロティシズム。
 また、海は治療の空間でもあった。画家たちが崇高な海を描いていた頃、女性のヒステリーや不妊症の患者には海水浴が推奨された。なぜなら近代の想像力のなかで、海は豊饒性の象徴であるからだ。しかし、この海は、今日の海水浴という言葉が想像させるような温かい夏の海ではなく、冬に近い季節の冷たく塩分の強い荒れた海だ。むろんこれは崇高美学の海にほかならない。

(…)十八世紀後半の女性にとって、海辺の風景は独自の様式にもとづいて構築される。自然空間で裸足を人目にさらし、なま暖かい砂に触れ、髪をほどいて海風にさらし、普段着ている衣服を脱ぎ、男たちからじろじろ見られているという皮膚感覚を体験し、海水浴で波に触れることによって戦慄を感じる。こうしたことは新奇な空間における目新しい経験であり、要するに、強烈な近代性の風景をもたらした。また、自然の諸要素が出会い、新しい感覚が集まる場所である海辺んでは治療効果が期待され、それだけ強い情動が生じる。血液の循環と呼吸が促進され、横隔膜が刺激され、崇高美という美的規範が新たな力を得る、というわけである。(145頁)

 さらにコルバンは、バシュラールなどを参照しつつ、水のエロティスムを語る。たとえば「水浴している女性が不意うちされるという」テーマ。コルバンは具体的な作品を言及していないが、ドガの《朝の水浴》などがその典型で、ここには背後から女を視線でうがつ窃視的な男の欲望が描かれている。また、このテーマの遠い反響が、これもコルバンは言及していないが、ヒッチコックの映画『サイコ』の有名なシャワー・シーンであることは言うをまたない。
 そして、水のなかでの女の死。いうまでもなくオフィーリアだ(この詳細な分析はバシュラール『水と夢』にある)。あるいは、ルソー『新エロイーズ』のジュリー。人妻である彼女がかつての恋人と会うのはボートの上だ。ゆれる水はそのまま、彼女のゆれる心である。誘惑し欲望をたかぶらせる水。そして、子供を助けようと水に飛び込んだために、彼女は命を落とす。愛の情念の水は、死の衝動の水へと変ずる(この分析はスタロバンスキー『透明と障害――ルソーの世界』に詳しい)。

 最後にコルバンは〈風景〉をめぐる検討をおこなう。風景とは、コルバンの考えでは、「凝視や、情動や、快楽や、憎悪の対象となる空間の解読」である。「一連の信念、科学的確信、規範、美的コードに規定された感覚的経験の対象になる空間を読み解く」ことである。そして、それを「風景に仕立てあげる主体の個人史」も重要であるという。

 本書は執筆時70歳になろうとするコルバンがものした、小さなエッセイである。コルバンは歳を重ねるごとにますます詩人に近づいている。該博な素養とポエジーにあふれた記述は、どちらいかといえば箴言めいた断定が目立ち、具体的なマテリアルによる補強が少ない。かくかくのテーマが多くみられた、と述べても、その実例たるテクストや図像が言及されないケースが多いのだ。それは、本書と関連の深い大著『浜辺の誕生』などでかなり言及しているためかもしれないが、どうも歴史書としてはものたりない印象を持つというのが正直なところだ(エッセイとして読むならば、幸福な読書を経験できることは間違いないのだが)。ただ、この邦訳では訳者の小倉孝誠氏の適切な配慮によって図版(原書には一切ない)がふんだんに掲載され、この難を補っている。他にも、やはり原書にはないコルバンのインタヴューも掲載されているので、原書よりもこの訳本で読んだほうがよいぐらいだ。