キム・ギドク『弓』@渋谷Bunkamuraル・シネマ

clair-de-lune2006-10-20

 キム・ギドク監督の最新作『弓』(2005年) を見る。

ストーリー(結末を知りたくない方はご注意を)
 老人と少女が船の上に暮している。老人は60歳ぐらい、少女は16歳。二人は親子でも祖父孫娘でもない。老人が10年前に少女をさらってきて、それ以来、ずっと船上生活を続けているのだ。そして、老人は少女が17歳になったら、結婚しようと考えている。彼女の17歳の誕生日は数カ月後に迫っている。老人と少女の船は釣り船屋をやっている。もう1艘のボートで客を迎えにいって、船の上で釣りをさせるのだ。釣り客の男たちが少女にちょっかいを出すと、老人は矢を放ってどやしつける。そんな老人に少女は微笑む。矢を放つ危険な弓は楽器にもなる。老人は弓の弦を二胡のようにならして、優雅な音を奏でる。また、弓矢を使って、老人と少女は占いをする。釣り船の側面に吊るされたブランコに乗って揺れる少女ごしに、老人はボートの上から矢を放って、船体に書かれた観音の画を射る。矢の当たった位置で運命を卜するのだ。むろん一瞬でもタイミングが狂えば少女は命を落とすかもしれない。だが少女は微笑みを浮かべブランコで揺れている。少女は老人を信頼しきっているのだ。二人の絆は強い。
 だが、そんな二人の前に、釣り客として、一人の青年が現れる。青年は少女に好意を寄せる。少女もそれに応える。だが、二人の仲を、老人は引き離そうとする。老人は嫉妬に狂い、青年に矢を放ちさえする。少女は老人に反抗し、憎悪を示す。青年は老人を糾弾する。少女の自由を奪うな、外の世界から隔絶した船の上に閉じ込めるのはやめてるべきだ――。
 老人との生活を続けるか、自分と一緒になるか――どちらの人生が彼女を幸せにするのか。青年は老人に弓占いで決着をつけるよう迫る。占いの結果は、少女の口から老人へ、そして老人から青年へと、耳打ちで告げられる。青年との生活を少女は選んだ。
 釣り船に老人を残し、ボートは青年と少女を陸へと運ぶ。だが、ボートの動きがおかしい。船体に繋がった綱が、何かを曳いている。老人が曳き綱の先を自分の首に巻き付けて、自殺を図っていたのだ。少女はやはり老人を捨てられず、彼のもとに戻る。青年もついていく。老人と少女は結婚の儀式をとりおこなう。呆然とみつめる青年。彼を釣り船に一人残し、二人はボートに移る。これから初夜を迎えようというのだ。少女の服を老人は脱がせる。だが、彼は、弓を鳴らしはじめる。あまりに優しい音色が少女を包む。そして天に向かって矢を放つと、老人は海へと飛び込む。老人は矢になったのだ。やがて、矢となった老人は、少女のもとに戻ってくる。そうだ、初夜の契りを結ぶために・・・。

 少女を誘拐してきて10年間監禁する。日本でも同じようなことをやってしまった男がいたが、どう考えても猟奇的犯罪でしかない行為をした老人を、少女が、青年に救われかけながらも、最後まで捨てられないのはなぜか。そしてこの行為に、美や愛というものがそれに属する或る価値を、観客が認めてしまうのはなぜか。老人が少女に寄せる自分勝手な欲望は醜く汚らわしい。だが、性愛の欲望だけに忠実である姿と、たとえば現実世界に生きるわれわれが、性愛の欲望を金銭や安息といった政治的な欲望と交換し、まさに欲得づくの編み目のなかに投げ込んでいながら、あたかもそうではないかのような擬態をする身ぶりに「倫理」や「道徳」の名を与えること、端的にいえば「文明化」された性愛の作法に即することと、どちらが醜悪かは、そう容易には結し難い問題であろう。そんな、答をさぐりたいような、しかし深く考えたくないような、きわめて寝覚めの悪い問へと、この映画はわれわれを導く。傑作である。
 キム・ギドクの好みのテーマは本作でも踏襲されている。水上生活、密室、女性への加虐、小動物の虐待。様式美というべきかマニエリスムというべきか、好きなものはあくまで好きだという一貫性は、それはそれで立派なものだ。
 気になるのは、ストーリーも寓意的構造も、過去のキム・ギドク作品に比べると単純になっている(なりすぎている)というきらいがみられることだ。ラストにおいて顕著だが、「弓矢」と「船」という要素(あるいは「矢が船にうがたれる」、そして最後に「船が水浸しになる」こと)*1は、精神分析理論を知るわれわれにとって、きわめて明確な倍音を持っている。これをどう取るかは微妙なところだ。やはり単純すぎるという気もするが、そのように読み込んでしまう私のほうが単純で、つまらない理屈にとらわれているのかもしれない。そんな理屈を弄するよりも、キム・ギドク的な形象――水上建築(cf.『春夏秋冬そして春』)、密室(cf.『悪い男』)、扉(cf.『春夏秋冬そして春』)、針状に尖ったもの(cf.『魚と寝る女』)――をただただ楽しむべきだろう。そして、少女の危うい聖性と微かな淫蕩さを見事に表現した女優ハン・ヨルム(撮影時の実年齢は22歳)にただただ魅了されるべきなのだ。美術や衣装も素晴らしい。仏教画をほどこした崩壊寸前の釣り船の廃墟的空間に、少女の衣装の色彩が映える。全編を通して、ほとんど科白はない。視線のやりとり、しぐさ、そして弓の奏でる音色だけが、会話をなりたたせている。
 とにかく必見である。東京での上映が比較的短期間で終わってしまったのが残念である。

 画像はフランス公開版 (L'arc) のチラシ。

*1:何やらスタロバンスキーによるルソー論のようになってしまった。