中川陽介監督『真昼ノ星空』(2004年制作、2006年公開)を見る。上映は28日(金)まで渋谷のユーロスペースにて。27日(木)は休映。
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沖縄に暮す一人の男と二人の女。ヤクザ幹部の暗殺の仕事を終えて、事件のほとぼりが冷めるまでひとり隠れ家で暮している台湾の殺し屋・リャンソン(王力宏)。昼は弁当屋の厨房で、夜は道路工事のガードマンとして働き、地味な家でつつましいひとり暮らしをする三十代の儚げな女・由起子(鈴木京香)。そして、さびれたプールの監視員兼受付係として働く、二十歳前後の、感情の起伏をみせない、どこか植物をおもわせる女・サヤ(香椎由宇)。リャンソンは毎日のようにプールに泳ぎにいき、サヤと顔をあわせるが、会話らしい会話はほとんどしない。由起子とリャンソンは週に一度、コイン・ランドリーで出会うが、会話をかわすことはない。いつでも交われる近接した距離が、そこには生じていながら、なかなか訪れない三人の交錯。だが、三人は、互いに相手を無言のうちにも強く意識している。リャンソンはなにもコイン・ランドリーで洗濯しなければならないわけではない。彼の家にはあらゆるものが揃っている。彼女がいるからこそ毎週土曜、同じ形をした無機質な機械の並ぶプレハブめいた小屋へと、わざわざ足を運ぶのだ。
ある夜、リャンソンは由起子を、自分の台湾料理を食べにきてほしいと、たどたどしい日本語で誘う。由起子は不信感をあらわにするが、やがてやや心をひらき、「考えておくわ。連絡ちょうだい」と言い残し、去る(リャンソンは彼女の電話も住所も知らないのに)。翌週、ようやくリャンソンは由起子を自宅に招き、得意の料理を振る舞う。その味に、はしゃいで手をたたくような喜びをみせることはないが、満ち足りた表情をうかべることで、彼を腕をたたえる由起子。そして、風の吹く夜の庭で、朴訥なことばで、誠実に、控えめに、好意(愛、などというけばけばしいものではない)を伝えるリャンソン。だが、由起子は、彼女もまた、ごく静かに、自分が人を好きになると不幸を招いてしまうといって、好意に答えられないこと(拒絶、などという峻厳さを備えてはいない)を示す。暑い沖縄の夏の夜に、あくまでも低体温の会話が断片的に続く。暗い路地を一緒に歩き、わかれる二人。もうコインランドリーには行かないといいつつ、あえて中国語の「再見」という言葉を投げかけるリャンソン。むろん、別れの挨拶だが、字義どおりには「再び見る」だ。ふたりの静かなわかれの光景が、帰宅の途にあるサヤの目に、ふと止まる・・・。

この映画には劇的な出会いも、魂の限り叫ぶような愛の告白も、決定的な別れも起こらない。事務的な、生活上の、即物的な或る事情から、一定の間隔で出会いを繰り返した人物たちが、しだいに相手を意識しだし、それが恋心なのではあるまいかと感じるようになる、ゆるやかな時間が流れる。

プールの場面に降り注ぐ真夏の陽光も身を焼くような暑さを感じさせることはなく、蒸し暑いはずの夜の路地にも湿気は感じられない。破れた恋の悪夢に不快な汗を流してうなされる由起子のうたた寝にも、彼女が纏う空気の重苦しさは希薄だ。ほとんど唯一と言ってよい、劇的な感情の発露のシーンがある。由起子がリャンソンへの好意を、かつて実を結ばなかった恋の思いに重ね、苦しみ、グラスを庭へと投げ付けるのだ。だが、このシーンでも、グラスが砕け散ることも、中の水が飛沫を立てて飛び散ることもなく、ただ庭の草のなかに軟着地するのみである。映画のなかのモノたちも、慎ましやかなのだ。

物語の舞台は沖縄である(台湾のシーンも若干ある)。だが、この街も「沖縄」あるいは(基地の街といったコノテーションを惹起する)「オキナワ」といった名称を、ほとんど感じさせない。シャッターをおろした商店街、そして暗い路地。日本語の看板を極力映し込まないよう選ばれたショットによって、また、夜の闇のなかの人物や街並を光量を抑えた画面にとらえることで、街は、どこの時代のどの都市の一角ともつかない、無記号的な路地となっている。昼間は様々な言語を用いて国籍や時代性を背負った言葉で会話するわたしたちは、夜には、ただ、人という生きものにかえり、万人共通の寝息を漏らすのみである。眠る街にも国籍がない。そして、昼の沖縄が映し出されるのも、無機質な青いプールと(プールの底はなぜどこの国でも青く塗られるのか?)、万国の人々が共通に求める「食」という営みの、それも庶民の日常の食事の担い手たる、マーケットや弁当屋といった場所ばかりで、やはりどこの国ともつかない。いつの時代とも、昼とも夜ともつかないのだ。この映画の沖縄は、昼にあっても、物憂い午睡に沈んでいる。昼ノ眠リ、昼ノ夢、昼ノ夜、「真昼ノ星空」。

最後に書き添えるべきは――敬愛する鈴木京香を称えることも今日ばかりは差し置いて――サヤを演じる新人女優・香椎由宇のことである。1987年生まれの彼女は、本作撮影時点で十七歳である。十七歳であるにもかかわらず、この魅力はどうだろうか(どうでもいいことだが、私は女性の十代の女性に魅力をほとんど感じない、そして、女性がもっとも美しいのは三十代だと信じて疑わない人間である)。最近、女性誌の表紙やテレビ・ドラマで見かけることが多く、気になって名前を記憶していたのだが、現在もわずか十九歳なのだ。信じ難い(ちなみに彼女は現在放映中の連続ドラマでは女教師の役を演じている。つまり設定年齢は二十二歳以上ということだ)。十代特有の未成熟な心身の不安定感さを剥き出しにした危うさという、実年齢と演ずる年齢の近接が容易に醸し出しうる雰囲気とは全くことなる、むしろ成熟した女が人生経験の中で背負った傷や痛みによって身に帯びる頑さに近いものを、あの瑞々しい容姿に漂わせている。不思議な女性だ。